普遍的な名作の条件は「愛」

世界には、普遍的に受け入れられる作品、創作物というものが存在する。

それらに共通する要素は「愛」である。

 

 

 

 

普遍的な作品と「愛」


名作、古典とされる作品、創作物、物語というものは世界に数多く存在する。

それらに普遍的に共通する要素はなにかということを考えたときに、共有しているテーマは「愛」なのではないかと思う。
どのように物語が展開したとしても、最後に提示されるのが愛であることは、共有する要素なのではないかと思う。


アニメの例


古典文学などを例にするよりも、日本の文化ならばアニメが例としてわかりやすいだろう。
古い時代から現代に向けていくつか、名作中の名作とされているものを列挙すると――


宇宙戦艦ヤマト


宇宙戦艦ヤマトのいちばんはじめのTV版、ガミラスを滅ぼしたときのセリフはそのものずばり「我々に必要なのは愛し合うことだった」というものである。
アニメファンというものの実質的なはじまりはヤマトとされることが多いが、そのはじめから愛というテーマが提示されていた。


機動戦士ガンダム


一番最初の機動戦士ガンダム(1stガンダム)で、最後のセリフは「僕にはまだ帰れるところがある」「こんなにうれしいことはない」というものである。


ガンダムラスト


帰る場所があること。それは愛そのものである。
ガンダムはミリタリー物として受容されることが多いが、こと最初のガンダムについては、戦争という舞台を借りて物語をやりたかったことが伝わってくる作品である。愛というものが描かれたエピソードとして他に私がまっさきに思い浮かべたのは、登場人物の一人であるカイが愛を知り、愛する人を失った「大西洋血に染めて」だった。


新世紀エヴァンゲリオン


新世紀エヴァンゲリオン、TV版の最後のセリフが「僕はここにいてもいいんだ」ということである。
他者からの愛を受け入れるということだ。


銀魂150話とエヴァ最終話を比較【ニコ動コメ付き】

エヴァの最終話は、制作上の都合で本来考えられていたものにならなかったことが知られているが、結果としてこのセリフを最後に持ってくることが、エヴァを一時代を築いた作品としたのではないか。初期ガイナックスの作風は、どちらかといえばコテコテの演出でやりたいことをやるイメージが強いが、(上記のガンダムも打ち切り作品であるように)愛というテーマと偶然つながることが、秀作を名作に押し上げたのだ。
(また、マイナスの愛について描くことも愛というテーマを語ることなのかもしれない)


涼宮ハルヒの憂鬱


涼宮ハルヒの憂鬱、原作の一冊目と2006年のTV版のラストは、狂言回しであるキョンが、涼宮ハルヒという人間の存在を肯定するというものだった。
自己を探し求めている人物である(という造形が2000年代前後的だ)涼宮ハルヒは、いまいる世界を壊して、キョンと2人だけしかいない世界を創造しようとする。
しかしそれに対して「わたしはあなたを肯定する」ということをキスで示したのである。


魔法少女まどかマギカ


2011年の魔法少女まどかマギカのラストもまた、わかりやすく愛で終わるものだった。神となったまどかは、過去と未来のすべての魔法少女を助け、そのものずばり愛を与える。
そして、誰よりもまどかを想った人間であるほむらに「わたしはいつでも一緒にいる」ということを伝えたのだ。

 


12話の流れ再現


大量の作品が愛をテーマにしている


普遍的に受け入れられている名作を例に上げたが、それ以外にも、わたしが見たことがある作品にも、あらすじしか知らない作品にも、よくよく考えてみると愛がテーマであるものが大量に存在する。
恋愛ではなく、性愛ではなく。

 

なぜ愛が普遍的テーマであることに気がついたか


このことにはじめに気がついたのは、いまでは決別してしまった、お世話になった年上の人物との会話からだった。
その人物が自分に指摘したのは「お前には愛というものが欠如している」ということである。

実際のところ、わたしはいまでも愛が欠如しており、実行できていない。
しかし、気がつくことはいろいろとあった。

そもそも、愛という行為、愛という言葉、愛という概念が、もっと限定されたものであると思っていたのだ。
他人を愛することは難しいと思っていた。
もちろん、一貫して愛し続けることには心身の健康が必要だ。
パウロが言うように愛は忍耐強いものである。

本当に世界は愛で満ちているのかもしれない。
そして、創作物においても、愛というテーマは普遍的な価値を持つもので、それをより深く描けたものが、普遍的な名作、古典となっていったことに気がついた。

創作物は無数の切り口から語ることができる。
だが、あくまでも物語としてみたとき、作品が落ち着くところに落ち着いた、まとまりをもったものとなるかどうかを、愛というテーマをどのように描いているかが左右するのではないか、と思う。

愛は最後にたどり着くところで、楽曲がはじまりの音に戻ってくるようなものなのかもしれない。

もちろん、他のテーマを掘り下げていくこともできる。
だが、そのような作品はマニアの間で評価されるものにしかならない。

マニアックであるが、マニア向けで終わらず普遍的な評価にたどり着いている作品もまた、通底するテーマは愛そのものといえるのではないか。

破滅を描いた作品の代表格である「人間失格」でさえ、破滅に至るのは愛を渇望するがゆえなのだ。

この文章を書こうと思ったのは、中国のSF小説である劉慈欣『三体II 黒暗森林』を読み、そのラストもまた愛で締められていたからだった。
三体は三部作で、パート3はこの記事を書いている2020年にはまだ翻訳されていないため、次作がどうなるかわからない。
だが、中国では三体三部作のなかでこのパート2が最も評価されているといい、そのことは愛が普遍的な名作の条件であることを証明しているといえるだろう。

 

 

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

 

 

 

三体Ⅱ 黒暗森林(下)

三体Ⅱ 黒暗森林(下)