永遠の命の無意味さについて
永遠に生きるという概念がある。
宗教において救い=死後の永遠の命だったりするし、科学の発展によって永遠の命を求めることに夢を見ることも考えられる。
しかし最近、人間が永遠に生きたとしても、あまり意味のないことなのではないかと思いはじめている。
永遠に生きても意味がないのではないか?
人間によって究極の目的があるとすれば、それは宇宙を解き明かすことであり、そのことは死の超越に直結するのではないか、と思っていた。
日々の動物的な、肉体的な、賽の河原に石を積むような営為だけで人間という種が終わるのではあまりにも空しすぎる。
人間だけが持つ能力、知性をもってすれば宇宙を解き明かすことができるのではないかという、あっけらかんとした、素朴な科学信仰である。
(ともすればそのような考え方は個々の人間の軽視にもつながる。最近、中国のSF小説「三体II」を読んだのだが、著者に同様の素朴さを感じた)
宇宙というか世界というかこの世というか、そういうものを解き明かすことについては期待しているし、なんらかの知性がそれを成し遂げることはできると思う。
だが、世界を解き明かすことが死の超越につながるかというと、そうではないかもしれないと思いはじめた。
肉体は老いるが精神も老いる
世界、宇宙を解き明かしていくことは、死の超越にどこかでつながるかもしれないが、あまり意味がない。
そう感じたのは、自身が老いつつあることに気がついたからである。
最近、自身が急激に老けたことを感じている。
肉体よりも精神について感じている。
一気に通俗的な語りになってしまうが、音楽や読書の嗜好が固定化しつつあること。
仕事や趣味の内容が、これまでの人生で行ってきたことの延長に限定されつつあること。
そして、他の人間との関わり方について、自身の限界を自覚したこと、具体的には脳の働きに天井があり、愛の概念を実行することに困難を抱えていること。
能力が頭打ちになりつつあることを自覚するにつれて、仮に自身が(自身の精神が)永遠に続いたとしても、永遠に老い続ける地獄にしかならないのではないか、と思い至ったのである。
ただし――上記はハードウェアの制約ありきの考え方である
ただし、精神の成長に限界を感じるのは、脳というハードウェアの存在が前提である。
もしも、寿命という期限が存在せず、脳というハードウェアが拡張される、もしくはまったく別のハードウェアの上で走らせた場合には、老いることを無視できるかもしれない。
将来の夢を聞かれたので、電脳化して不老不死になり、人格のデジタルコピーを全宇宙にばら撒きたいと答えた。
— 平田朋義 (@tomo3141592653) 2020年10月2日
その前提では自分という個体が存在していることはまったく意味を持たないが、もしそうなれるのなら、宇宙の行く末を見てみたいという欲求が明らかに存在している。
正直なところ、自分自身は人間という動物であるが、動物であるがゆえに刹那的に生きなくてはいけないことがとても悔しい。
すでに肉体的な快楽を学習してしまっているが、もっと純粋に知性だけをドライブできたらどんなに楽しいだろうか、と思ったりする。
そして、自分がこれまで割り振ってきたスキルは、残念ながら宇宙や世界を解き明かすことへ、直接的に寄与するものではない。
人の営為の、隅っこの隅っこを歴史として書き残すことを行ううえで、それがなんらかの形で、人類の知性の片隅の片隅の片隅に一滴でも含まれることを望んでいるが、それが慰めにすぎないこともわかっている。
ただ、おそらく、いま宇宙や世界を直接的に扱っている人の営為においても、マクロな視点から見れば、一滴の望みの分量は少しも差がないのだろう。
身も蓋もないが、肉体を持つ人間には限界があるので、最終的に人間は、なんらかの他の知性へリリーフを行うしかないのだと思っている。
それが人間の精神を外部化したものなのか、まったく別の知性なのかはわからないが。
知性の集合はキツいということについて
少しずれる話なのだが、かりに人間の精神を外部に出すことができ、バーチャルな空間で生きることができたとして、それはかなりキツい世界なのではないかと思うようになった。
自分は世代的にインターネットに夢を見ることができていた。
しかしそれは、インターネットに接続することにコストがかかり、足切りがされていたから有用なものに見えただけだった。
インターネットに万人が接続するようになって生まれたのは混沌でしかなく、バーチャルな精神の空間も同じようなものにしかならないだろう。
精神だけの存在、ようするに魂のようなものが永遠に生きる場合、その世界というのは上記のバーチャルな空間に非常に近いようなものであると想像できるが、もし、人間の精神がそのまま混ぜ合わせられたら、かなり辛いものがある。
自分はキリスト教をやっていたが、永遠の命という仮定の以前に、心が洗い清められる必要があるという概念が存在するのは、人間がそのまま永遠に生きても意味がないということは自明であるからなのだろう。
どんな形であれ人は死ぬのだろう
放っておいても肉体は死に、おそらく精神も消えるのだが、もし精神が続くとしても、それは死ぬのと同じことなのだろう。
テクノロジーでバーチャルに精神が続くとしても、宗教的な概念で精神が生き続けるとしても、肉体というかせが外れた時点で精神は他の精神と混ざり合うほかなく、そうなれば、いま自分が持っている精神とは似ても似つかないものである。
自分という個体はまったく意味を持たない。
なんらかの知性が宇宙を解き明かすことへの期待は持っているが、そのことと、自身という個体が存在していることに、あまり関係はないだろう、というか、そこに関係を見出すことに意味がない。
死ぬこと、つまり自分という個体の精神が消えることは怖いのだが、それは、肉体をもって生まれたからには回避できないことで、怖がる必要もないのだと思う。
(支離滅裂な文章だが、やっとこの辺の考え方について形にできてよかった)