メアリー・シェリー 『フランケンシュタイン』 再読

メアリー・シェリー 『フランケンシュタイン』を図書館で借りて読んだ。
光文社 古典新訳文庫 2010年刊の小林章夫訳。

大学生の頃に授業で読まされた以来である(当時はたしか新潮文庫で読んだ)。

 

よく知られているように、フランケンシュタインの怪物は、1931年の映画『フランケンシュタイン』でボリス・カーロフが演じたような、現在一般にイメージされているものではない。
今回読むときは、脳内ではジョジョの奇妙な冒険のカーズで再生されていた。

また、これもよく知られているようにフランケンシュタインは怪物を作った主人公の名前であり、怪物に名前はない。

さて、大学生の頃に読んだときは、まだ物語というものを理解できる脳ができていなかった。
なのでほぼ内容の記憶はなく、実質的には今回が初読に近い状況だといえたのだが――

感想としては、フランケンシュタインの怪物のほうに感情移入をして読んでいた。
この文庫版の巻末解説からして、本書はさまざまな読み方を提供してくれると触れているのだが、まず感じたのは、本作は幼児虐待の話である。

フランケンシュタイン(主人公)は怪物が命を得た瞬間、その醜さから怪物と向き合うことを放棄して逃げ出す。
その後も基本的に、フランケンシュタイン(主人公)はすべてのことから逃げ回っている。
そして、逃げ続けることが不可能になった瞬間、今度は怪物を殺すことだけにとらわれた狂人と化す。

いっぽうフランケンシュタインの怪物は、生まれたときに愛されなかったこと、そしてその後も自身の醜い外観から人間に裏切られ続けるが、そもそもは、生みの親であるフランケンシュタイン(主人公)が怪物をきちんと親として愛せばなにも問題はなかった。

だが、生みの親が創造物を愛することができなかったということを描いたことが、本作を普遍的な作品にしている。
親は子供を愛せない。
ということは、古今東西、非常によくあることである。

人間には、自身の子供であっても他人を愛することができる人とできない人がいる。
先天的にもありうるし、後天的にそうなってしまうこともありうる。
(ちなみに自分は自身のことを他人を愛せない人であると感じている)

人が生んだものを愛せないという心理を、もちろんひとつの例にしかすぎないが描いたことが本作の最大の価値なのだろう。

フランケンシュタインという名前はあまりにものちの文化で手垢が付きすぎたので、あえて本作を読む気にならないという人も多いかもしれないが、間違いなく本作は古典である。
ボリス・カーロフフランケンシュタインの怪物を演じた際に現在イメージされるようなビジュアルにされてしまったのは犯罪に等しい。

というよりも、怪物という言葉に引きずられてホラーのような手垢が付けられてしまったことは不幸というほかない。
人による生命の創造とかSFとかホラーとかそういうジャンルの枠で語る行為自体が最悪である。
作品をジャンルで語ることをやめろ。

普遍的なテーマが扱われているのでぜひ読むべきである。