信じないことの天井・信じることの障害
先日、精神科医で言語学クラスタ、着ぐるみクラスタのすきえんてぃあ先生 @cicada3301_kig の以下のツイートを見て、自分が感じていることが明確に解説されていると感じた。
不安の強さ、文字の汚さ、文才、極右や極左の支持、神の崇拝なんかは知能の高さに対して一見すると単調増加or単調減少のような印象があるけど、おそらく実際にはU字にカーブを描くような対応を見せますよね。だから非常に賢い群と賢くない群の特徴が意外と一致してしまう。
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) 2021年1月7日
いや違うな、あらゆるものに対して最適化された知能が決まっていて、山のピークが高すぎたり低すぎると単調構造に見えるんだな。そう考えると「神を信じる」は能動的な行動ではなくて「無神論を選択する」に最適化された知的水準があるんだな。そう考えると尋常じゃなく賢いと逆に数学が苦手になる?
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) 2021年1月7日
どこがとくに目を引いたかというと「神を信じる」ということである。
神を信じることと自閉
自分はキリスト教の教会に通っていたが、信じることにするスタンスで通っていたため行かなくなった。
そのときに感じたのが、(手垢のついた言葉だが)いわゆる自閉症スペクトラムといわれる人が宗教を信じようとすると、狂信者になる、もしくは斜に構えて知識偏重になり信じることができなくなる、そのどちらかだということだった。
宗教についてはそれで一件落着したかと思っていたのだが、しかし、神を信じられないことは、自分の人生の他の問題とも通底しているということを最近思うようになってきた。
信じない価値観
自分は神を心の底から信じない。
かつては日本の曖昧なアニミズム下で生きていたが、なまじ明確に宗教をやってしまったがために、解像度が上がって信じられなくなってしまった。
また、さまざまなイデオロギーを信じない。
左右を問わない。
たとえば以前、左派の政治活動をしていた人と繋がっていたことがあるが、その人の活動に関しては、やっても意味がないのになぜそんなことをするのかと冷淡だった。
またコミュニティを信じない。
いま自分が属しているコミュニティがあるにはある。
しかし、属していられるのは、コミュニティに属せない人のコミュニティだからであり、出るも入るも自由だからである。
地縁や血縁、結婚、会社、ようするに家族のようなコミュニティを見ると逃げ出したくなる。
これらのことを一言でいうと、共同体を信じない(好まない)ということである。
そのような態度は、ある程度多くの人が共有しているものだと思っていた。
実際、自閉症スペクトラムといわれる人にはある程度共有できるものだと思われる。
そして、自閉症スペクトラムではない「頭がよい」人の間にも、それなりに共有されているものだと考えていた。
宗教を信じないことは人類の永続性を信じないこと
宗教や神を信じることは、ひいては人類の永続性、未来を信じることである。
共同体を信じることもそうである。
宗教において語られる死後の世界や輪廻転生など「死んだらどうなるか」は宗教の本質ではない、といわれることがままある。
しかしそうではない。
「死んだらどうなるか」が宗教の本質である。
たとえばキリスト教の人が自分を捨てて人に奉仕するのは、死んだあとに幸せが待っていると曖昧にでも思っているからである。
多くの人は、自分は神を信じていないと思っていても、狭義の宗教だけに限定せず、広い意味でのなんらかの価値観を信じることまで拡大してしまえば、自分が死んだあとにも人類は永続していくことを信じている。
しかし、イデオロギーや政治思想やコミュニティまで含めた広義の宗教に対して、その意味を疑っていく癖のある人間が一定数存在する。
中途半端に頭がよく、またそういった行為に向いた脳の構造に生まれると、そうなりがちである。
信じない価値観の天井とその上
さて「頭がよい」人(自分よりも頭がよく、自閉症ではない人)の間に、共同体を信じないことが共有されているものだと考えていた。
しかし最近、曖昧に理解できてきたのが、そのような「頭がよい」人の上にいる人がいて、そのような人は共同体の価値、人類の永続を信じている。
どうやら私には見えないものが見えている(これはオカルティックな意味ではなく概念が見えているという意味である)。
そのことについて明確に言及しているのが、上でも挙げたこのツイートなのだった。
不安の強さ、文字の汚さ、文才、極右や極左の支持、神の崇拝なんかは知能の高さに対して一見すると単調増加or単調減少のような印象があるけど、おそらく実際にはU字にカーブを描くような対応を見せますよね。だから非常に賢い群と賢くない群の特徴が意外と一致してしまう。
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) 2021年1月7日
私には信じることのできない概念を理解することができる人がいる。
それは学ぶことのできないものでセンスとしかいいようのないものである。
たとえば私が真面目に勉強をしていたら、研究者にはなれないとしても、理系の就職ができていたくらいには数学や物理をある程度理解することができただろう。
しかしセンスというのはそういうものではない。
わたしは部屋を掃除できるが、ADHDの人は部屋を掃除することができない。
それは脳がそうできているからだ。
おそらくADHDの人にとって、部屋を清潔に保つことは、能力の天井のように感じられているだろう。
同様に、私は部屋を片付けることはできるが、共同体の価値を信じることについて脳の天井が存在している。
天井がある人と共同体
共同体の価値を信じない人は、しかし共同体に含まれてきた。
身も蓋もない話だが、それは共同体の価値を信じない傾向のある人が持ちがちな能力が、共同体に必要だったからである。
(ちなみに、身も蓋もない話を身も蓋もないまま提示するのは、まさに天井がある人のやりがちなことである)
共同体の価値を信じない、身も蓋もない人は、機械とか道具とか、人間ではないものを好みがちである。
少し前までの人類は、そういう人に人間以外のものを扱ってもらう理由があった。
しかし現在では、そういう人はそこまで多く必要とされていない。
頑固な職人気質といわれる人が結婚して家族を持っていたのも、だからである。
とはいえおそらく、共同体を好まない人にとって結婚は義務で行うものだった。
これはたしか前にもこのblogに書いた私の史観にすぎないことだが、自閉症スペクトラムの男性はかつて、妻を殴って結婚していたと思われる。
共同体を信じない人が家族を持つのが辛いのは当然なので、それはそうだ。
だが、そういうことはかつて社会的に許容されていたが、いまは許されなくなった。
私は女性を殴ることが正しいとは考えない。
だから、自閉症スペクトラムの人間が、いまの社会で不幸になっていることは、それはそれで正しいと思うし、単に下駄を外されているだけだと思う。
こういう身も蓋もない考え方の人間の道は2つである。
自分の加害性を自覚して抑鬱に陥るか。
それが認められずに、俺にも女をあてがえと狂戦士になるか。
私は狂信者になりたくないので、抑鬱を選ぶ。
そして、少なくとも理解できる、人間以外の機械や道具と付き合って余生を過ごす。
さらにいまひとつとしては、脳が発達して共同体の価値を信じることができるようになることか。
機械くらいしかわからない人間
自閉症スペクトラムは機械や道具、プログラミングに向いているのではない。
機械や道具、プログラミングといったもの「くらいしかわからない」だけである。
人間というのは複雑すぎて理解できない。
いっぽうで機械やコンピュータは人間の感情や社会よりも単純なのである。
能力の限界
私には能力の限界があり、機械くらいしかわからない人間のところまでしか達することができない。
それはとても悲しいことである。