アルフォンソ・リンギス 『わたしの声』

 

 

図書館で借りた、アルフォンソ・リンギス 『わたしの声』という本を読んだ。

2021年、水声社、初版。
原著は2007年。

著者は文化人類学をバックボーンにもつ哲学者とのこと。

 

 

 

 

 

わたしという一人称を切り口に世界のさまざまなことについて語る本だが、読めば読むほどに自分自身が責め立てられている気持ちになった。
どういうことかというと、著者が本書で語っているのが、感覚的な生き方が物事の本質へ向かうものであり、理詰めの生き方をすればするほどに本質的なものから遠ざかるということだからである。

おそらく世界には普遍的な正しさというものが存在していて、それは言語によって表そうとした瞬間に、それがどういうものであるかを語ることが不可能になるものだと考えている。
人によってはそういうものを「本質」という単語を用いてざっくりと表すのを見たことがある。

そういう概念があることは、最近、おぼろげながらわかってきた。

しかし……
自分はそういう、言語によって表せないざっくりとしたものを好ましく感じない人間である。
そういう人間、そういう脳に生まれついてしまったのか後天的にそうなったのかはわからないが、現時点でそうである。

そして、そういうことを文章で書いていること自体が、普遍的なざっくりとしたものに背を向けていることの証明である。
なので、自分はこのアルフォンソ・リンギスという人とは敵対する立場であるということを、読めば読むほどに感じた。

もう、これはどうしようもないことなのだと思っている。
読めば読むほどに、普遍的なもの、社会、人間が子供を産み育てること、生命、そういったものからお前は不必要だと責め立てられているような気持ちになる。

最近では人間という生身の肉体から子供という新たな肉体が生まれることが気持ち悪いと感じるようになってしまった。
いま思えば、自分は最初から人間のことが嫌いだったのではないか。

「人間は人間のことを愛さなくてはならない」と社会から養成されているので、その価値観を実行しようとしてその真似事を演じていただけなのではないか。
自分は愛という感情をどうやら持っていない。
真似をしようとしても長い期間に渡って実行し続けることができない。

という欠如を自覚するようになってから、こういう文章を読むことは自傷行為にほかならなくなっている。

日々、世界から「お前は生きている必要がない」と思われているという感覚が強くなっていっている。