小野美由紀 「傷口から人生」

「マオ・レゾルビーダ」
ブラジルで、「未解決の人間」という意味。
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの旅路で、著者が教えてもらった言葉である。
自分の家族、人生の悩みを解決していない人間を指すという。

本書の全体を、この言葉が表していると思った。
そして、私も、他の読者も、著者も、マオ・レゾルビーダなのだ。

本書 「傷口から人生 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」は、まさに著者小野美由紀が人生の課題を解決しようとしていく過程を記している。

正直なところをいうと、読み始めには軽い文体からして内容について半信半疑だった。
TOEIC950点とか、まがりなりにも就活を「することができた」(失敗したとしても)ことにも、そのどちらにも目を背けた自分はコンプレックスを刺激されたし、唯一、慶応仏文卒という学歴にだけ、自分も同格だという虚しい自尊心を刺激されたりした。
TOEIC400点だ。

……これら、いま書いたことはすべて、もはや何の役にもたたないことだ。
そして、未解決のことだ。

いま露悪的なことを書いたが、これが果たして自分を裸にすることなのだろうか。
おそらくそうではない。このレベルでは、ただただ、自己憐憫に浸ることでしかないのだ。
自分をときに憐れむこともまた、未解決なのだった。

本書についてのことに戻ると、まさにそういう、いま勢いで書いたような、良くも悪くも生きることの勢いを刺激される一冊なのだった。
劇薬のようなものだ。ネガティブともポジティブともどちらへも転ぶことができる意欲を湧かせてくれる。

もしかすると、描かれている著者の生き様が、自身に重ねやすいからなのかもしれない。
私だけではなく、普遍的に重ねられる内容だ。生きづらい人にとって普遍的なことなのだ。

家族のこと。
家族に違和感を持ってしまってからの、身内との格闘。不完全な家族はどこにでもいる。
私自身についてもそうだ。

順風満帆から脱線して、メインラインへ戻らなくてはという意識を捨てられないのもそうだ。

本書はこじらせて脳内がスパゲティになっている人に、現状を追認して前に進むことをすすめてくれるのかもしれない。

とりとめのない勢いだけの感想になったが、羨ましいこともあった。
母を殴ったことが羨ましい。そして家族を認められるようになったこと。

巡礼路を歩いたことが羨ましい。宗教的な何かでなく、歩く行為、仲間(crew)と歩く行為が。

私はまだ、あてもない時期が続くのかもしれないが、少しだけなにかを貰えた。