すべての人間が加害性を自覚したらいいのに、ということについて

多くの人間は、自分自身の加害性を認識していない、もしくはそれを重大な問題だと考えていないことに追い詰められている。

おそらくそれは、自分がぬくぬくとした環境、恵まれた環境で幼少期を過ごしたためで、多くの人間は思ったよりも野蛮であることを知らないまま育ってきたからだと思う。
友人の多くはいじめられた経験があり、自分の知っているいじめというものに比べて、ずっと陰湿だったり暴力的だったりする。

よく「公立の学校への恨み」というものが語られるが、自分も公立の学校出身なのに、そういうものはなかった。
もしくは認識していなかった。
おそらく、自分が幸運だっただけだった。

 

 

加害性を認識することについて


自分は加害者である。

わたしは自分自身が加害者であると認識している。
現に、自覚している範囲だけでも傷つけた人が複数人いるし、自分のことを恨んでいる人も複数人いるだろう。

加害者であるという自覚を持つことは、立ち止まってしまうので生産性がないという人もいるが、わたしはそうは思わない。
自分は気が狂っているかもしれない、という問いかけを常に繰り返して、抑鬱に陥りながらも生きて、周囲を傷つけないほうがずっとよいと考えている。


人間はすべて間違っていることについて


若い人間は、経験が足りないので間違っている。

いっぽうで、歳を取った人間は、考えが凝り固まっているので間違っている。

人間はすべて間違っている。
そういうことを考えがちなのは、もしかしたらわたしがキリスト教をやっていたからなのかもしれない。

しかし、キリスト教の人がよくいう「人間はすべて罪人」という言葉に頼る行為は、それ自体がその定型句を用いることで思考を停止しているので間違っている。
宗教に頼る人間もまた狂っている。

 

気持ち良くなることについて


他人へ加害的な言動をする人間が、そういう行動に出る理由は、そうすると気持ちがいいからである。

過激な発言をしてすっきりするのは、気持ちがいいからそうする行為である。

気持ちがいい行為をすることは、他の人間を傷つける可能性をはらんでいる。

気持ちがいいと感じる行動をするときは、自分が狂っているのではないかという問いかけをつねにしなければならない。

 

政治や商売をする人間には勝ち目がないことについて

 

政治や商売をする人間は、それが快感だからやっている。

やればやるほど気持ちがいいという理由でそれをやっている人間に対して、手段として行っている人間が勝負を挑んでも勝ち目はない(絵描きは誰に頼まれなくても絵を描いているのと同じことである)ので、多くの意図的な政治的行為、意図的にお金を稼ごうとする行為は、リソースをつぎ込むだけ無駄である。

快感が理由で行動している人間は狂っている。
狂っている人間とは関わらないほうがいい。

鬱屈することを認めてほしい


鬱屈すること、厭世的であることを認めてほしいというのが希望である。

厭世的であり、ときには鬱々とすることは、それもまた、快感だから行われていることだ。
そうすることが精神を保つ手段である。

厭世的であること、斜に構えることを「俺は心底クソだと思う、軽蔑する」と指摘されたことがある。
なぜそうなのか。

厭世的であることが好まれないのは、群れのテンションを下げるためである。
人間という動物の群れの統率を乱すからである。

かといって、政治的なプロパガンダ、多数派に対してNOを突きつける集団に与すことも望まない。

東京新聞の「空気は読まない」という広告に対して反感を覚えたのは、そういう主張を行う時点でそれもまた群れの統率そのものだからである。

人間という群れに与することを望まない。
そして、その立場を貫こうとするならば、争うことが快であるように脳が構築された種類の人間に対して勝ち目はないのである。

 

自身が群れを乱す存在である

 

いっぽうで、自身が群れを乱す存在であり、社会からうとまれる立場であることについての自覚が必要である。

だからこそ、自身が気がつかないうちに、なんらかのものと戦おうとしてしまわないように、常時モニタリングをする必要がある。