植芝理一の漫画が好きだった

私は90年代のサブカルチャーをリアルタイムで体験していないのだが、うっすらと、マジンガーZゲッターロボ、それに特撮ヒーローといった70年代文化の再評価が行われていたことを記憶している。

今思えばなぜ快傑ズバットのパロディをすることをセンスがよいと思っていたか謎な90年代なのだが、ともあれ、その90年代に書かれた漫画に、植芝理一の『ディスコミュニケーション』がある。

 

ディスコミュニケーション(1) (アフタヌーンKC)

ディスコミュニケーション(1) (アフタヌーンKC)

 

 

植芝は早稲田の漫研出身らしい。

初期(在学中デビューだ)のつたない絵柄の頃から、尋常ではない書き込みを得意をしていた。その書き込みというのは、例えば大友系やベルセルクのようなリアリズムではなく、多数のオブジェクトを画面内にみっちりと書き込むというものなのだ。

民俗学的モチーフやウルトラマン人形やフェティシズムや、そのような、まるで関連のないものを並べることが格好良かったという、ポストモダンの残滓を引きずっていた90年代センスが、私が始めて本作を読んだ頃には魅力的に感じたのだった。

『ディスコミ』、夢使い謎の彼女Xと続く作品のなかで絵柄は洗練されて、フェティシズムの面で『謎の彼女』において爛熟の域に達したと言えるだろう。

 

正直いって、著者の作品はディスコミ終盤から夢使いにかけては低迷していた。絵柄の面でも、著者の性的嗜好が前面に出すぎて万人に受け入れられ難いものがあったし、話の筋についても、ある種中二病がかった宗教・民族モチーフ、インドや東南アジアからの引用も減り、物語のバックボーンを失ってどこか軽薄になってしまったのだ。

しかし『謎の彼女』になって、フェティシズムの面では八割方の読者が可愛いと思えるものをみつけたし、絵柄の面でも著者が楽しんで描いていると思えるものに回帰することができた。

そう、植芝は単に、描くことが好きで好きでたまらない系統の漫画家なのだと思う。

 

*     *     *

 

植芝理一の漫画は私にとっては、やはり青春を彩った思い出なのだと思う。

大学のサークル部室にディスコミが揃っていて、民俗学文化人類学的なものに惹かれたりもした。

悲しき熱帯を読んでよくわからないという感想を抱いたりしたし、旅行先でエスニックなお面を買おうとしたこともあった(今思うとただの雑貨なのだが)。

いまとなっては、森見登美彦あたりの作品でお狐様のモチーフが出てくるとクサすぎてきつく感じるが、当時はまだ、そういうものが新鮮だったのだ。

そして、本作作中に描かれた学生生活は、自分の夢見て描いたものに近かったかもしれない。

 

そういう意味で、ディスコミュニケーションノルウェイの森、その二つの作品が、自分にとって大学への郷愁を強く思い起こさせる作品なのだと思う。

 

最後に、この記事を書いていて植芝理一で検索したら、ほんのすこし前に謎の彼女Xが完結していたことに驚いてしまった。

おそらく、幸せな結末のハッピーエンドで二人の人生を始めてくれたのだろう。

 

 

謎の彼女X(12)<完> (アフタヌーンKC)

謎の彼女X(12)<完> (アフタヌーンKC)