自分は「新兵訓練で脱落した人」である

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限界が近づいている。
自分が自殺に追い込んだ元恋人は34歳で死んだが、自分もいま34歳である。
状況は異なるが、詰みであるという意識が増えている。

 

新兵訓練で脱落した人間

自分は新兵訓練で脱落した人間だと思う。

はじめて精神科を受診したのは大学生の頃だが、それ以前から崩壊する片鱗は見え隠れしていた。
高校生の時点で保健室でのカウンセリングを受けていた。

自分がこれまで生きながらえてくることができたのは、社会や人間が持っているさまざまな悪意というのを、そこまで感じなくてよい環境に、運良く身を置くことができたからである。
なので、優しい環境が助けてくれることを期待しながら生きてくることができた。

しかしそろそろ、経済的に自力で自分一人のことを支え続けていくことができない可能性が高い、ということがつきつけられている。
社会運動系の人は、そういうことに対して「福祉に支えてもらうのは恥ではない」ということを言い出すが、そうではないのだ。
そうではないことがなぜわからないのか。
活動家は全員くたばってほしい。
屈辱を与えないでほしい(弱者が左派に悪態をつきがちなのは、優しさという形で屈辱を与えてくるからだ)。
自分は自力でお金を稼ぎたい。
それも、お情けではない形で。

しかし、お情けではない、本当に責任を持って働くということを訓練する途中で脱落してしまったので、それはできないのだ(できないという言葉を使うと突っ込みを入れられるので、それをやるのが苦しいという表現がよいかもしれない)。

かといって死ぬ勇気もない。

 

優しい環境が当たり前ではないということを感じはじめている。


優しい環境が当たり前ではないということを感じはじめている。
自分が育ったベッドタウンは治安が良かった。

しかし、日本の多くの場所、というか世界の多くの場所はそうではなく、生の暴力、生物としての暴力で満ちているようだ。
弱者属性を持つ人に対して、ビジネスをしている人は「現実を見ろ、お前の生きている環境は甘ったるい」ということを言う。
それが正論だということもわかるから打ちのめされる、ということもある。

正直なところ、自分は偶然、それなりに貯金のある時代と場所に生まれたから生きながらえることができたのだと感じている。

また、暴力性について、自分もそれを持ち合わせていることにも絶望している。

人間が暴力的であるなら、自分もその一員なのだ。

主に恋愛の話だが、自分はたぶん、恋人に暴力をふるったり支配したかったのだろう。具体的な暴力ではないとしても、もっとわがままを言って、自分の好き勝手にしたかったのだろう。しかし、それは正しくないことを自覚しているし、したくないと考えていたので、我慢し続けて我慢し続けて、毎回破裂してしまっていたのだと思う。

 

弱者を福祉で助けるとして、誰が食糧を作るのかということ


自分は育ってきた環境から、左派、リベラルの言うことに本来は与したいという気持ちはある。

だが、後天的にドロップアウトしたことから、彼らのいうことは理想論でしかないという気持ちもまた持っている。

根本的なこととしては、飯を食わせるには食糧を生産しなければならない、ということにたどり着くのだと思う。

お金とか、金融とか、経済とかはさておき、さまざまな人が理想郷のような生活をできるようになったとしても、誰かが食糧を生産し続けなければ生存していけないのだ。

「やりたいことで生活する」環境は理想だ。
しかし、やりたいことで生活する人がやりがちな農業は、基本的に理想主義なのでなんの役にも立たない。

農業は苦痛である。
また、甘い世界で生きてきた人間を根本的に叩きのめす世界である。
わたしはそれをやりたくない。

厳しい環境、わたしの育ったベッドタウンとは違う世界の大半の環境の人間は、飯を食べるために屈辱に耐えることに慣れている。
わたしはそれに耐えられない。

わたしはキリギリスなので死ぬしかないだろう。