いまさら椹木野衣 『シミュレーショニズム』を読む

最近、脳が聡明になっていることを感じているので、これまで何度か読んで、さっぱりわからなかった、椹木野衣の『シミュレーショニズム』を読んでみることにした。

結論からいうと、「さっぱりわからない」のが正常な感想だということがわかった。
つまり、ポストモダンということだ。

 

 

 

椹木野衣のシミュレーショニズム

 

椹木野衣のシミュレーショニズムを、ちくま学芸文庫版で読んだ。

本書で提示されている概念そのものは、とてもよく理解できたし同意する。
1970年代のあいだに、前衛、先端としての表現がやりつくされた(と思われた)ため、それまでの美術を参照し、シミュレーションする表現形態が誕生した、ということである。
わかる。とても実感がある。

ただし、そのことが理解できたのは、わたしがちくま学芸文庫版(2001年)で読んだからなのだ。

本書のちくま学芸文庫版には、ハードカバー版(1991年)にはなかった「講義篇」が冒頭に加筆されている。
この「講義篇」は非常にわかりやすい。とても平易な文体で、もともと本書が提示した概念について解説を行っている。

ところが、講義篇を読み終わって、本来の本文に突入すると、それはそれはひどい内容なのだ。
はっきりいって、読めたものではない。


ポストモダンはひどい


まず、文体がまどろっこしくて読めたものではない。
やたらと概念を借用してきて、読者を煙にまくばかり。
もちろん、引用されるのはドゥルーズフーコーボードリヤール
ようするに、典型的すぎるほどの、ポストモダンの文章なのだ。

1990年代のポストモダン批判からすでに四半世紀の過ぎた現代から見れば、本書の文体がまるで中身のないものであることはすぐにわかる。
というか、ポストモダン批判でやり玉に上がったことをすべて行っていて、笑えるほどだった。
ポストモダンの悪いところの詰め合わせである。

概念の借用についても、非常に鼻につくところがあった。
たとえば「分裂病」という当時のバズワードを多用しているが、もちろんこれは、実際の精神分裂病(現在の統合失調症)とは関係なく、想像上の雰囲気で用いられている。
幸か不幸かわたしは長らく、当事者として精神疾患や精神医療の世界を見てきてしまったので、雰囲気としてあこがれで用語を使っていることが理解できてしまう。
また「エイズ」や「セクシャルマイノリティ」といった概念についても、それらを祭り上げているところがある。
精神疾患にしても、HIVにしても、セクマイにしても、べつに特別なものとする必要はないし、そういうことをされると迷惑だ。
マイノリティの神格化という行為もまた、ポストモダンの悪癖だといえよう。

この文章を書いている現在30代のわたしにとって、ポストモダンの時代というのはまさに、父殺しの対象にほかならない。
だが、それにしたって、本書の元来の本文は、あんまりすぎる。


提示した概念は重要


もちろん、椹木野衣 『シミュレーショニズム』が新たに概念を提示したことそのものは功績だ。
当時、この読みづらいにもほどがある本文から、言いたいことを読み解いた人々には感服する。

だが、出版から30年を経た現在に、わざわざ本文を読み解こうとするのは時間の無駄だ。
冒頭の講義篇だけで、そのあらましは理解できてしまう。

というより、椹木野衣自身、自身がポストモダン華やかなりし時代に「やらかした」ことを自覚しているのではないか。
そうでなければ、ちくま学芸文庫版に、100ページにもおよぶ「講義篇」の加筆を行うはずがない。

これまでにもポストモダンはさまざまに批判されてきているが、ほんとうに、ロクなものではなかった、と改めて実感したのだった。

 

 

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)