インターネットコンヒサン

告白する。

神に。
人にも。
告白する。

決壊してしまった。

平たく言って罪を重ねに重ねてきている。
自分はキリスト教の教会で受洗しているわけだが、本来もっとも告白すべき罪を告白せずにきてしまったのだ。

そしてふと、生活の中で不安にとらわれるのはなぜかということや、なぜ繰り返し心身の不調に陥るかということを考えたとき、その二重生活、嘘を重ねる生活を告白しようということに至ったのだ。

 

告解


ふたつの意味がある。
わかりやすくはキリスト教について。
もうひとつは自身の情緒的不調についてである。


キリスト教


自分は罪を重ねに重ねてきた。
主には性的なこと、そして恋愛。

といっても、単にコミュニティの倫理観のはなしではない。

いっぱんにキリスト教では性的なことを罪とされがちであるが、それよりも重いことを自分は行った。

それは神に対して嘘をつくことである。

キリスト教では、洗礼を受けるときには罪を告白し赦される、と理解している。
もちろんそのあとにも人は罪を犯すので、新たに犯した罪を告白するわけだ。

さて、自分がそれまでの罪を洗いざらい告白したうえで洗礼を受けたうえで、同様の罪を犯していたならばまだましであった。
悔い改めようとしたのだから。

しかし、自分は罪を告白することをせず、(牧師へ、というウエイトが大きいが)、そのままずるずるときてしまったのだ。
仮面を被り猫を被る。
悔い改めてなどいなかった。
つまり神に嘘をつくということだ。

キリスト教うんぬんについて語ろうとしたりなんらかのことを行おうとしたりしたのは、その後ろめたさの裏返しだったのかもしれない。

これについては、順序がおかしいし神と人を裏切ることは明白ではあるが、牧師に個人懺悔をお願いし日取りが決まったのでそれを待つしかない。

少なくとも、洗礼の時点で洗いざらい悔い改めていないのは決定的なことで、だからこそ、いくら繰り返し、礼拝や日々の定型祈祷で罪の赦しを祈っても、そんなものはまやかしにすぎなかったのだ。

 

精神と情緒


個人懺悔を行う。
それだけでもよいのではないか。

しかし、鍵垢ではあるがTwitterにて自身の他人に隠していた罪を洗いざらい、おそらくすべて洗いざらい、書き込んだ。

それもまた猫を被ることに耐えられなかったのかもしれない。
かつて転生前のアカウントでは性的なことも社会的にダメなことも洗いざらい書いていた。

それができなくなったのは、現アカウントで、クリスチャンのフォロワーの目を気にするようになったからだ。

しかし、そんな規範意識に染まったことをしていたら、自身の二重性がどんどん乖離していく。

内心ではすべての人に対して嘘をつき続けている。
嘘をつくことを覚えたのは最近で、3年くらいしか経っていない。
おそらく嘘に抵抗があるのは自閉的なことなのだろうが、それでも、嘘をつかずにいることへの欲求は強い。

秘密と嘘にまみれて生きることはできない。
だから告白したのだと思う。

 

インターネットコンヒサン

 

スコセッシの映画、沈黙 サイレンスでは告解(コンヒサン)が重要なシーンとして複数回用いられた。

それを目にしたことも遠因なのかもしれない。

神は赦されるのではないかと思っているが教会に赦されない可能性は高い。
しかし、告白することこそが、自身の破綻から立ち直ることに、いまもっともつながることなのではないかと考えている。
可能性でしかないのだが。

神にはこれから告白する。
人にも、告白する。
軽蔑されることを恐れず告白することが必要だ。

 

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

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