正義を実行できない後ろめたさと神の仮定 そしてシモーヌ・ヴェイユ

この入院中、本を読んだり、朝日新聞を読んだりしている中で感じたこと。

いまさらネット右翼のようなことをいうつもりはないが、久しぶりに朝日新聞を読んで、そうか、朝日新聞が嫌われるというのは、こういうことだったのか、ということを思った。
毎日の紙面にある、戦争、憲法、朝鮮……。

なぜそれを、私は嫌うのか。
居心地を悪く感じるのか。
それは、そういった、絶対的な弱者を救おうとする、寛容のまなざしが、正義にほかならないことを知っているからである。

 

正義がなにであるかを、人間は直感的に知っている。
しかし、成長するにつれて、大人になるにつれて、正義だけでは生きられないことを覚え、正義から目を背けて生きるようになる。
トトロが見えなくなるし筋斗雲にも乗れなくなる。

しかし、そのことを自分は否定しようとは思わない。
なぜなら、多かれ少なかれ、自分たちはそうしないと生きていけないからである。

人間は肉体を持っているので、食事をしたり、肉体を養うことを行わないと生きていくことができない。
おおむね、人間の問題はそれだけだ。
女性に関する問題も、いかに女性の権利を整えようとも、肉体が女性の人間が子供を産むしか、生殖の方法がないことが要因である。

ギリシャ哲学者やある種の宗教者のように肉体を下のものと見る視点は、実際に肉体があることを意図的に無視しているので、収奪をする後ろめたさだけを押しつけてくる。

先進国に生きている時点で、収奪をしていることは間違いないし、五体満足で生きている時点で、障害者に比べて下駄を履かされている。
それが後ろめたいから、少しでも正義を実行しようとするのだろう。

しかし私は精神障害者なので、たとえば社会運動家や自然保護活動家やキリスト教の人が考えるような正義を実行しようとすると、自力で食事を確保できないか、もしくは一生、福祉で金銭を得て生活しろ、ということになってしまう。
収奪をしてまで生きるよりも、生活保護ないし福祉で生きろ、というのもひとつの意見ではある。

しかし、働けば自力で暮らせないこともないが、福祉の対象と言えなくもない、ボーダーライン上にいる私は、自力で生きることの夢を捨てることができない。

だから、自分が生きる上で、冷徹な、不寛容の行動を後ろめたく思いながら、働くことがしたい。

肉体にハンディキャップがあるにもかかわらず、収奪をしないで生きようとした人がいた。
たとえばシモーヌ・ヴェイユである。
しかし彼女は若くして死んでしまった。

自分はそんなふうに理想主義で気高く生きることはできない。
後ろめたくても、生き延びたい。

とにかく問題は、後ろめたいことなのだ。

自力で生活しようとしたこの数年間、ある種の思想をもった人々徐々に反感を覚えるようになった。
社会運動家NPOの人々、それにキリスト教の教会などである(私は2014年から2018年にかけてキリスト教の教会に通っていた)。

なぜ反感を覚えたのかといえば、そういったコミュニティの人々は、人間が食事をしないと生きていけない、肉体を持った存在であることを無視しているかのような、理想主義的なことを言うからだ。

肉体を持つ生物であるために、寛容でない言動をしたり、正義とはほど遠い行動をすること。
とくにキリスト教の教会について言うなら、それらは聖書に記されている「悪」そのものであるといえる。

よくよく考えると、この「悪」というのは、自分が強いられていた後ろめたさと、まったく同じものなのだった。

とすると、自分はキリスト教の教会に通ううちに、キリスト教的な善悪の基準を内面化していた、といえるだろう(洗礼も受けたので当然ではある)。

しかし違うのはその先だ。

キリスト教では、そういった悪は、イエス・キリストによってすべてあがなわれている。
キリスト教の信者(完全に信じきっている人)は、イエス様が救ってくれたということで、そういう悪、後ろめたさから、ひとまず逃れて生きることができるのだった。

しかし自分はそうではない。
そもそも、自分は神が「いることにする」という立場で教会に通って、洗礼を受けるに至ってしまっていた。

それはつまり、神が仮定の存在であるとみなすことである。
私はその通りであると思っている。
しかし、キリスト教の信者は、そのことを当然信じている。
すると、信仰者は、神の救いというものを仮定して、救われたことになって安心しているのだ、ということになる。

つまり、神とは人間が後ろめたさから逃れるために仮定したものである。
しかし自分は、後ろめたさはあるのに、神を仮定できない。

これでは、後ろめたさばかり感じてしまい、自分が辛いのは当然である。

しかし、シモーヌ・ヴェイユを読んだり、自然の中で鳥や花や空を見ていて急に気がついたことがある。
「それでよい」ということだ。

人間は、肉体があるので、正義を実行できない。
そのことを自覚してしまうと後ろめたい。
だが、それでよい。

もちろん、正義をすべて実行できないからといって、積極的に悪を実行すべきではない。
だからといって絶望しなくてもよい。
そのままでよいのだ。

単に、自分は正義が実行できないことを知る。
それだけでよいのではないか。
後ろめたいのは当然だが、神を仮定して救われる必要はなく、後ろめたさを受け止めればよいのだ。

34歳で死んでしまったシモーヌ・ヴェイユは、カトリックの影響を強く受けたにもかかわらず、最期まで洗礼を受けることはなかった。
それは、神があくまでも仮定の存在でしかないことに気づいていたからだろう。
シモーヌ・ヴェイユほどの人物が、そんなことに気がつかないはずがない。

シモーヌ・ヴェイユは、キリスト教と、その思想のほとんどを共有していた。
正義と悪、寛容と不寛容。
しかし、最後の最後、神による救いについてだけは同意することができなかったに違いない。

神による救いを信じていないのに、救いの証明である聖餐にあずかるほど、馬鹿げたことはない。

しかし同時に、神を仮定の存在とすることは、キリスト教を信じている人からすれば、死を直視しなければならないことでもある。
死が無であることを直視すること。

自分は、それを仕方ないと思っているが、それが可能なのは、まだ若いからであることは自覚している。

それでもお、神が仮定の存在だと直感的に思っている以上、それを曲げることはできないという立場は変わらないだろう。

フランソワ・チェン「魂について」という本を最近読んだ。
シモーヌ・ヴェイユについても言及されていた、7通の書簡をまとめた書籍である。

その最後に科学に基づいて思考する人間への批判があった。
人が死んだらそのあとは虚無であるということになるが、それでよいのか、そんなことが許されるのか、という、カトリックの立場からの批判である。

その発言こそ、深い知を持つ著者が、自身の死を、無になることを直視できず、神を仮定せざるを得ないことの証左ではないかと受け取った。
もちろん、そう考えるようになったのは、著者の辛苦にみちた生涯があってのことだろう。
しかし、それでもなお、神を仮定する必要はどこにあったのか、と思うのだ。

神がいない人生は後ろめたい。
しかし、神がいない人生は虚無ではない。
正義を実行することはできる。
私はキリスト教の教会に通ったことで、行動原理は共有するようになった。
しかし、最後の最後、救ってくれる神が存在するのかということを共有することができない。
キリスト教の信者は、そんな生は空虚であると指摘する。

しかし、そんなことはない。
なぜならば、そのままでよいからなのだ。

 

 

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)