フランスにおける五姓田義松の活動についてのメモ

大学の卒論では五姓田義松(ごせだ よしまつ)という幕末〜明治初期に活躍した洋画家をテーマとしたのだが、

先日、図書館の廃棄本にあった、岩波の「世界 2018年9月号」に五姓田義松についての記述が少しだけあったのでメモ。

 

 

 

五姓田義松

五姓田義松は最初期の油絵画家で、チャールズ・ワーグマンに師事した。高橋由一の兄弟子である。
油絵は幕末に「写真と並ぶ新たな写実メディア」として日本に入ってきたが、見たものを見たままに描くという人間カメラの技術においては天才で、日本の初期洋画を切り拓いた重要人物であるといえる。

だが、そんな五姓田義松は、明治13年にフランス留学へ出発、アメリカを経由して明治22年に帰国するのだが、留学すると絵が下手になってしまったともいわれている。
まるでなかやまきんに君の筋肉留学である。

その原因は、まさに写真とカメラにあった。
日本においては人間カメラであるだけで賞賛されたのに、芸術の本場パリでは、「表現」というものが求められたのである。
すでに明治天皇の巡幸に同行したほどの地位があった五姓田義松なので当然だが、師事したのがアカデミズムの画家、レオン・ボナだったのも不幸なことだった。

同時代の先端の美術は印象派
印象派というのは、色彩をはじめ、まさに見たものを見たまま描くことでも美術は可能であることを打ち出した側面を持つ潮流であり、歴史画などの古い表現と異なり、五姓田義松の得意分野とまさに合致したものだったのだ。

というわけで、フランス留学中や帰国後の五姓田義松は微妙な人生を送ったと思われがちなのだが、
岩波「世界2018年9月」の文章を見ていて、わたしが大学の学部の卒論を書いていたときには気が付かなかったことに言及されていた。

 

五姓田義松が担当した「国生み」のイラスト


岩波の「世界2018年9月号」に掲載された稲賀繁美ギュスターヴ・モローと亀』という文章に、山本芳翠の浦島図に言及した箇所があった。
山本芳翠は、五姓田義松の父、初代五姓田芳柳の弟子で、五姓田一派のなかでもいちばんの出世頭である。
浦島図は、「浦島太郎」を描いた大きな油絵。西洋画が聖書やギリシャローマ神話を描くのを真似て、日本の昔話をテーマにすることを試みた作品である。
山本芳翠の師は、オリエントを主題とした作品でアカデミスムの方面で名を馳せたジェロームで、そのことも山本芳翠がそのようなテーマを選んだことを後押ししたと、この稲賀繁美氏の文章では指摘している。

さて、相当に回りくどい文章になったが、そこで微妙に五姓田義松の名前が出てくる。
山本芳翠が聖書やギリシャローマ神話に伍するものとして位置づけた日本神話なのだが、古事記をフランスで初めて紹介したのが、東洋学者のレオン・ド・ロニー(Léon de Rosny)という人物だった。

そして、このロニーが著した古事記の抜粋本では、まさにフランスに留学していた五姓田義松へ依頼して、イザナキとイザナミの国産みの神話をイラストとして肉筆で描かせているのだ。

*1

わたしが学部の卒論で五姓田義松について調べたときに想像した五姓田義松の生活は、相当に荒れていたものだった。
借金ばかりを繰り返して、相当にうちのめされていた。
だが、こうしてちゃんと絵も描いていることを見ると、なんだ、五姓田義松よくやっているじゃないか、と思ったりしてしまうのだ。

というだけの話なのだが。
ロニーの古事記(もしくは日本書紀)の内容、古い本なのでpdfでないかとちょっとだけ探したがすぐには見つからなかった。
機会があったら見てみたい。

 

五姓田義松の墓


ちなみになのだが、せっかくなので、当時、横浜の日野公園墓地まで見にいった五姓田義松の墓の写真を最後にUPする。

 

五姓田義松の墓

 

というわけで五姓田義松の話だった。

 

なにかAmazonの本でも貼るかと思って検索したら、五姓田一派について一番詳しい研究者である、神奈川県立歴史博物館の学芸員、角田拓朗氏が2015年におそらく集大成であろう本を出していた。

いままで気づかず未読だったので読んで知識をアップデートしなければ。

 

絵師五姓田芳柳義松親子の夢追い物語 (幕末明治西洋画師サバイバル)

絵師五姓田芳柳義松親子の夢追い物語 (幕末明治西洋画師サバイバル)

 

 

 

 

 

*1:古事記を紹介ということなのだが、Wikipediaがソースで恐縮だが、フランス語版ウィキペディアのロニーの記事にある著書一覧には「Ni-hon Syo-ki, le livre canonique de l’antiquité japonaise」つまり日本書紀と書いてあるので、古事記なのか日本書紀なのか、どちらが正しいのだろうか?