わたしの究極の目的、人類の究極の目的

以前働いていたとある会社の社長が、こんなことを言っていた。

「すべての価値は、結局のところ時間に換算される」

つまり、こういうことだ。
移動は早ければ早いほどお金がかかる。
お金をかけてよい食べ物を食べるのは、その分長い時間生きるためである。
美しくなるのにお金をかけるのは、老化という時間にあらがうためである。

 

その社長は、大切にしている恋人がいるいっぽうで、老化により、自身が枯れて、名誉欲や性欲、その他もろもろの欲を失うのが怖いと言っていた。
そのために、さまざまな方法で時間にあらがおうとしていたのだろう。
自身の父が老いて、まるで異性に対する性欲がなくなっている様子を怖いと言っていた。

その話を聞いたとき、わたしは、なんとなくわかった気もしたが、本当にすべての価値は時間に帰結するとは思わなかった。

しかしもしかすると、わたしがしていること、思っていること、しようとしていることも、結局は時間にあらがおうとしているのかもしれない。

わたしがいましていることは、「ものを作ること」「ものを直すこと」「文章を書くこと」「作品を作ること」が主だろう。

これをさらにおおまかに分けると「エントロピーを下げること」と「人類の知識を次の世代に伝えること」と言い表すことができる。

エントロピーを下げるということは、エントロピーにあらがうことである。
ということは、こちらは完全に、時間にあらがうことである。

いっぽう、人類の知識を次の世代に伝えること。
これもまた、人が死ぬという、時間の法則にあらがうことである。

しかし、わたしの考えていることはそれで終わりではない。

なぜ、人類は次の世代に知識を伝えるのだろうか?
現代では、科学の知識によって、究極的にはすべての行為は無駄になるとされているのに?

じつは、わたしはそうは思っていない。
人類は、科学と呼ばれるものをはじめとする知識を積み重ねていくことによって、ほんのわずかであっても、もしかすると、宇宙を乗り越えることができるかもしれないと思っている。

もしかすると、それは人間が行うのではない可能性がある。
コンピューターかもしれないし、なんらかの概念的な知性である可能性もある。
仮に人類が、次の知性のための踏み台になるのだとしても、その知性のために知識を伝えていくことはけっして無駄ではない、それどころか究極の尊い行為だと思っているのだ。

わたしが中学生のころに読んだSF小説に、アーサー・C・クラークの『過ぎ去りし日々の光』というものがある。
この小説では、すでに死んだ人間の意識を未来の時代にダウンロードして、再び生き始めるという描写があるのだが、もちろんこれはあくまでもSFでの夢想にすぎないとしても、もしかしたら、そういうことが起きる可能性がなくもないのでは、と思っている。

人間は必ず死ぬ。
わたしも必ず死ぬ。

だからこそ、時間にあらがおうとするのだが、いっぽうで、人間は知識により死を乗り越えることができるのではないかと信仰しているのだ。
その意味で、わたしの考えていることは非常に宗教的であり、かつてキリスト教の洗礼を受けた人間ではあるが、むしろ科学という宗教を信じているのだろう。

という書き方をすると、科学を盲信していると言われそうだが、そうではない。
科学の手法を、疑うことを、信じているのだ。
そのことさえも疑わなくてはならないが、しかし、これが最良であると思う。

だが、わたしが生きている間には、それは当然不可能だ。
だから、人間は直後の世代に知識を伝えなくてはならない。
子供を産み、育て、さらに次の世代に知識を伝えてもらわなくてはならない。
その意味で、わたしは反出生主義者とは正反対である。

わたしがいましている仕事というのはフィルムカメラの本を書くことであり、それ自体はまったくもって、最先端の科学に貢献しない。
人文系もいいところだし、そもそも学部しか出ていない在野である。
しかし、知識を次の世代に伝えることは、どのような知識であっても尊いのだ。
それが、アカデミックな手法を意識している限り。
だから、アカデミックな知識の伝え方がまったくもって「なっていない」わたしは、その方法を修正していかなくてはならない。

人間が生きるのは、究極的にはほかのすべての人類のためである。

 

過ぎ去りし日々の光〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

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