死んだ人は概念上の存在

いま自分が想像している、死んだ人への罪の意識。

死んだ人とのあったかもしれない可能性。
そういうものはすべて、概念上の死んだ人に対してなのだということを指摘されて、自分は何を悲しんでいるのか、何を罪だと思っているのかわからなくなっている。

 

 


死んだ人への後悔


少し前に、別れた恋人が死んだ。

別れたのは死ぬ2ヶ月ほど前だった。

それで、いざ別れた恋人を亡くして思うことは、その人を自分はなぜ愛することができなかったのかという後悔なのだった。

もし、あのときに、彼女に対しての不満を押しとどめておけば、そうすれば彼女が死ぬことはなく、幸せに過ごすことができたのではないか。
そういう、取り返しのつかない選択をしてしまったのだという喪失感が襲ってこない日はない。

もしかしたら、どこかでボタンを掛け違えていなかったら、彼女と結婚する可能性すらあったのではないか。
それが実現できるくらいに、彼女が自分のことを死の瞬間まで愛していたことは明らかだった。

そんな、自分を愛してくれた人を自分は愛することができなかった。
無下に突き放してしまった。
イエス・キリストの説く愛の対極にあることを自分はしてしまった。
そう思っていた。


死んだ人は概念上の存在


しかし、その考えは自分の思い上がりであることを、ちょうどこの記事を書いている前日、複数の人から指摘されてしまったのだった。

もし、彼女が生きていたとしたらどうだろう。
例えば、彼女の死を止めることが自分にできたとしたらどうだっただろう。

そのときは、生前の彼女に対して抱いていた不満が再びぶり返して、同じようにぶつかって、仮に一緒にいられたとしても不満を抱えたまま過ごすことになっていたのは間違いない。
そうしてきされたのだった。

不満だった点はたくさんある。
いちいちおおっぴらに書くことではないので列挙はしないが、たびたび彼女のことを限界に感じてしまったのは事実である。

しかし、自分の不満とは裏腹に、彼女は終始自分のことを愛してくれたということも、明白な事実なのだった。


死んだから愛するようになった


彼女は自分のことを愛していた。
しかし自分は彼女のことを愛していなかった。

自分が彼女のことを愛するようになったのは、彼女が死んだからである。

現金なものであると思う。

結局、生きている彼女、すなわち本物の彼女を愛することが、自分にはできなかったのだ。

そう、自分が愛するようになった彼女は、想像上の存在にすぎない。
理想化された存在にすぎない。

死んだ人には不満な点はもはや存在しないのだから。

自分が愛するようになった彼女は、概念上の存在にしかすぎなかったのだった。

 

死はなんだったのか


では、彼女の死とはなんだったのか。

愛する男性に愛されないまま死んでいった犬死になのだろうか。

自分は、彼女が死んで初めて彼女を愛することができるようになったことを、愛を教えてくれたのだと解釈しようともした。
しかし、その獲得した愛というのは、本物の彼女への愛ではなかったのだ。

愛を教えてくれたのだという解釈さえ、死んでいった人を慰めるものではない。

意味を見出そうとすること自体がおかしい可能性には気づいている。
しかし死に意味や理由を見つけなければ、意識を保つことはできないのだ。

彼女の死とはなんだったのか。
それはわからない。

しかし、自分が彼女のことを、死をきっかけに愛するようになったのは、勘違いであり思い上がりであり、自分が愛するようになったのは概念上の彼女だったというのは、厳然たる事実である。