涼宮ハルヒと「オカルト」の終わり

2006年にアニメになった「涼宮ハルヒの憂鬱」は、高校生~大学生の間で確かにブームになっていた。いつの間にか歴史上の作品になりつつあることが信じられないのだが、確かに時代を象徴する作品だったことに間違いはない。

 

その冒頭で、作品を象徴する台詞がある。

「未来人、宇宙人、異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい」というものだ。

その台詞自体が作品の根幹に関わってくるのだが、ここで注目したいのは、挙げられている単語そのものだ。

未来人、宇宙人、異世界人、超能力者というのは、つまり、「ムー」的な、トンデモ的な、オカルトそのものなのだ。

 

原作第一巻が刊行された2003年時点で、これらの単語は一種のギャグとして用いられていたといえる。だがギャグが成立するということは、そういうモチーフが読者に浸透していたことを証明しているとも言うことができた。

 

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かつて日本にオカルトブームがあったらしい。

らしい、というのは、その最盛期に私はまだ生まれていなかったからだ。

それでも1999年のノストラダムスを恐れたし、ムー大陸という言葉のまがまがしさを感じたこともあった。

そして大人になり、オカルトを客観的に観察する「と学会」的な態度に近い態度を取るようになった私は、70年代の狂騒や、80年代の素朴な人間賛歌を疎ましく思うようにさえなっていたのだった。

 

だが実は、自分が気付かぬうちに、空気のように70年代オカルトを経験していたことを知った。

きっかけは「現代台湾鬼譚」という本を読んだことである。

 

現代台湾鬼譚―海を渡った「学校の怪談」

現代台湾鬼譚―海を渡った「学校の怪談」

 

 

台湾の「怪談」について論じた本書では、大衆文化を通じて台湾に流入した、日本の怪談・オカルトについても触れられていた。

 

台湾で日本の怪談が受容されるきっかけになったのは「ドラえもん」だったという。

戒厳令下の台湾で海賊版として読まれたドラえもんには、日本で連載された197080年代の空気が、これでもかと詰まっていたのである。

そして、日本にいた私自身もまた、ドラえもんをはじめとした作品を通じて、70年代の空気を吸っていたのだ。そういえば、大長編ドラえもんには素朴なエコロジーの要素が感じられるものが多いと思い返すこともできる。

小学生男子に絶大な人気を誇ったコロコロコミック、その中に再録されたドラえもんを通じて、私たちは7080年代を追体験していたのだ。

 

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そこで涼宮ハルヒである。

ブームになった後に拡散・浸透したオカルトは、2003年ないし2006年の時点で、ギャグに等しいほど普遍的存在と化していた。

涼宮ハルヒシリーズのSF的仕掛けや、キャラクター萌えが大高生男子を魅了していても、その作品に初めて触れるとき、入り口に位置する冒頭の台詞には、誰も引っ掛かりを覚えることがなかったのではないか。

 

涼宮ハルヒの数年後には「世紀末オカルト学園」という作品もあったが、この作品タイトルに至っては、オカルトという言葉をノスタルジーの象徴として利用している。

普遍的なネタ、ギャグとしてはうっすらと存在していても、オカルトというものは既に陳腐化しきっているといえるだろう。

 

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ただあくまでもそれは、私の実感や、観察できる範囲のことでしかない。

おそらく、オカルト的なものは一周してブームとしてやってくるのではないか。

なぜならオタク文化では同様のことがあったばかりなのだ。

魔法少女まどかマギカでは天使・悪魔のモチーフが用いられたが、天使や悪魔という言葉を持ち出すこと自体、ゼロ年代には陳腐な行為だったといえる。エヴァ以降手垢が付きすぎたためだろう。

だがその時代を知らない世代には、むしろ新鮮なものに見えるのだろう。そうやって、文化は何十年かの周期で繰り返してきたのだ。

オカルト的なモチーフは、おそらく近未来に再来するだろう。

ただし、あまり過激ではない方向で流行することだけは願うほかない。