戦後庶民のよりどころ 強さと弱さ

戦後、日本の貧困層の思想の受け皿、よりどころ、共同体となったのは、共産党と某新興宗教だという。

なるほど、街頭のポスターの数を見れば納得のできることだと思う。

 

さてこの二つの団体は、支持層が似通っているのに背後にある思想の面で、真っ向から対立しているといってよい。

単純に、団体同士が敵対しているというだけではない。

ベースとなる考え方の時点ですでに、向いている方向が180度違うのだ。

 

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宗教団体は、あくまで日本的である(それが日本的なのか、東アジア的なのか、アジア的なのかはわからない)。

日本的というのは、強くなることが目的ということだ。強くなろうとすることが、活動の原動力となっているのではないか。

自分が弱いことを前提とするのではなく、はじめから強くある場所、強さの影響圏内に自分自身を置いて、強さに自身を同一化しようとすること、それが強くなるための方法である。

強くなろうとするのだ。

 

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いっぽう共産党は、まず自身を弱者として規定している。

(ここでは共産党という言葉を使ったが、市民運動や左翼系団体全般もそうである。ただ、地方に至るまでの普遍的影響力についてなのでこう書いた)

自身を弱者として規定することと、自身の弱さを認めるということは、もちろん厳密には異なるだろう。

だが、あえて自分を弱い者とすることと、弱い私という客観視を得ることは、大きく重なっているように思える。

マッチョになれない人間が、自分が弱いと諦めたときにはじめて、この立場に立てるのだろう。

 

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こんな政治的なことを書いたのは、本来宗教とは相容れない存在だった共産主義というものが、20世紀も遠くなりつつある今から見ると、やはりヨーロッパというかキリスト教を強くベースとしているのではないかと思うからだった。

 

人間が個人のぜい弱さに直面したとき、もち得る思考は二つあるだろう。

自分は強いと規定することと、自分は弱いと認めることだ。

大きな主語を躊躇なく使うとすれば、日本人は前者の考えをとるものが多い。

マッチョなのだ。

 

それにひきかえ、本来は宗教さえも否定した左翼思想は、自身が弱い存在だと認めることがスタートラインである一点で、キリスト教がベースになければ生まれなかったものなのだと言うことができる。

 

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だからこそ、支持層は似通っていたはずの二つの団体の規模に、いまではそれなりの差がついてしまったのではないか。

日本人は、自分は強いと思い込みたいのだ。

そして、強くあることをあきらめた人間に対して、日本社会はとても冷たい。

 

 

日本人を〈半分〉降りる (ちくま文庫)

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