間違っているのだろうが西村賢太作品に重ね合わせることについて
ブックオフに並んでいた西村賢太の文庫本を、三冊とも読み終えた。
前記事の『寒灯~』のほか、『苦役列車』『廃疾かかえて』である。
それが的外れであることは理解しつつも、共感や重ね合わせる感情を持ってしまうのではあるが、「あるある」と「さすがにここまでひどくない」を同時に読み取ってしまうので救いようがない。
全体を見ると映画『苦役列車』は前史的内容のようで、むしろ彼自身の労働・金銭へおnだらしなさよりも(それも重ね合わせられるところではあるが)、秋恵という女性との関係性についてのほうが身につまされるのだった。
もちろん主人公の言動に「そこまでひどくない」と思って読んではいるのだが、もし物理的暴力や、作中のような愚劣な言動に至らなくても、前提となる思考は、おそらく私自身も似通っているのだと思う。
「私自身」についてblogで書き連ねるほど非生産的なことはない。
だが、むしろ劇中のろくでもない人生を、一種よきものとしてうらやましく思ってしまうのだ。女性の側からすればたまったものではない。
腐れ縁という言葉の良い意味での側面に惹かれてしまうことがあるのは、他人と分かり合うことが難しいからこそ、精神がどろどろに溶け合うのを求めてしまうからなのかもしれない。