いまさらドグラ・マグラを読む・脳が機械であることと自己肯定感について

最近、急に精神が明瞭になったことで、かつて読もうと試みて挫折した書籍をどんどん通読できるようになった。

今回、はじめて挫折せずに通読することができたのは、夢野久作ドグラ・マグラである。

「読んだ人はいちどは狂気を抱くようになる」という煽り文句がうたわれているが、そもそも自分は今年の5月に精神病院に入院したばかりで、すでに発狂している。
なんら恐れることはないだろう、というわけで読んでみることにしたのだ。

 

 

 

精神医学という隔離された世界への「スレ」


だが、いざ読了しての感想は「思ったよりも普通の内容だった」というものだった。

ドグラ・マグラは大正15年の精神病院を舞台にしている。
まず、そもそも精神病院という舞台自体に特段の驚きを覚えることがなかった。
もしかすると、当時この小説が驚きをもって迎えられたのは、いまから100年近く昔の時点にして、精神病棟や精神の病というものを、単に好奇の目としてだけではなく描いたことが理由だったのかもしれない。

現代の視点からしても、精神病棟の中というのは、現実とは隔離された異世界そのものである。
ところがわたしは精神の病の界隈に関わりすぎた。
そまた、100年前に比べれば、現在は精神の病院が少しは一般にも認知されたものになりつつある。

ようは、わたしはこの小説で描かれたような内容にスレてしまっているのだ。
スレすぎているといってもいいくらいである。

 

引き込む技術と、尻すぼみ


とはいえ、読んでいてなんども作品世界に引き込まれるタイミングはあった。

たとえば序盤で列挙された精神病院の患者の症状。
そこに「脳の働きというのは電話交換機のようなもの」というものがあった。
これは、わたしが最近つねづね思っている、脳もまた機械でしかない、という思考そのものである。

このことについて少し書いていこう――

 

「脳は機械である」ことに普通の人は自我を保てない


わたしがそのことについて確信を深めるきっかけとなったのは、ネット上でとあるひとが、昨今はやりのAIについてつぶやいた一言だった。
いわく「AIの本質はif文」

つまり、AIというのは、プログラミングのif文のように、さまざまな場面に対して、場合分けをして反応を使い分けているだけ、ということだ。

さて、わたしは自閉症スペクトラム、いわゆるアスペルガー症候群の人間である。
この手の人間が共通して持っている感覚がある。
それが「健常者をエミュレートする」というものである。
どういうことか。

たとえば、健常とされている人間が、ある場面で発言する「正しいとされる」言葉があるとする。

「おめでとう」「ありがとう」「ご愁傷様です」

もし、自分自身がそれを適切に使えずに、叱られたり、批判されたりした場合には、その発言を覚える。
そして、このことを繰り返していくことで、どんどん健常者エミュレートの精度を高めていくのだ。
つまり、自閉症スペクトラムの人間にとって、コミュニケーションは場合分けのif文にすぎない。

ということは、自閉症スペクトラムの人間がしていることと、AIがしていることは本質的に同じである。

そして健常者の脳が行っている働きも、エミュレートではなくもともと脳にインストールされたOSによりスムースに行われているだけで、まったく同じであるのではないか。
ということにたどり着くのだ。

すなわち、脳は、与えられた反応に対して適切な反応を返すための演算装置にすぎない、ということになる。

このことにうすうす感づいている人は多いだろう。
なのに、黙殺されるのはなぜか。
人間の精神は特別で神聖なものである、というイデオロギーがまかりとおるのはなぜか。

それは、精神が装置にすぎないことを直視すると、自分自身の存在理由がゆらいでしまい、そのことに耐えられないからだろう。
自閉症スペクトラムの人間は、おそらく「普通の人」に比べれば、その認識への耐性がとても強い。

わたしがキリスト教の教会に通うことがなくなったのは、この認識により決定づけられた。
キリスト教の人々の、福祉や人助けへの意識には感服する。
聖書が語ることも全体的には悪くない。

だが、わたしは根本的なところで、脳も他の臓器と同じく機械であると認識してしまった。
死ぬということは、機械が壊れて機能を停止することでしかない、としか捉えられなくなった。

死に対する救いを無理に信じるよりも、「自分が死ぬときは身体という機械が機能を停止するときだ」と認識した方が、死への恐怖がよりやわらぎさえするのだ。

(だいたい、上記のようなことをキリスト教の人に語ったところで、二千年かけて培われてきた反駁を繰り返されるだけなので、もはや、関わらぬが吉という認識でいる)


自分自身を特別だと思えないと人間は狂う


さて、ドグラ・マグラの話から長く脱線したが、このように、脳もまた機械であるということに、健常な人間は耐えられない。
普通の人間は、その確信を深めれば深めるほどに発狂する可能性が高まる。
だからこそ、ドグラ・マグラの作中で、この認識が狂人の思考の例として用いられたのだ。

人間は、自分自身が特別であることを欲する。
自分自身が特別で価値ある存在であると思えなければ、自我を保つことができずに、発狂したり自殺したりする。
だからこそ、頭や身体が弱く、子供の頃から「お前はダメだ」「お前はダメだ」といわれつづけた人間は、自分自身を肯定する言葉をかけてくれる宗教や思想に出会うと、コロっとカルトにハマる。
いっぽう、そのようなカルト的思想の支離滅裂さに気がつけるくらい脳の働きがよい人間は、そのような麻薬的手段で自分自身を肯定することができないので、少なくとも一度は精神を猛烈に病む。

結局、人間は自分自身を特別な存在と思えなければ、精神のバランスを崩していくばかりなのだ。
(だがわたしは、その現実を直視していくことにしか、人類の未来はないと思っている。すなわち、脳も装置であることを受け入れた先に、SF的ではあるが、人間が死を超越することへの希望があると思うのだ)


ドグラ・マグラはやはり探偵小説である


ドグラ・マグラに戻る。

本書を布団の中で読んでいて、怖くて読むのを止めてしまった箇所がある。
それは、結末に近い、主人公が巻物の白紙の部分を繰りはじめるところである。
何が飛び出してくるかわからない。
世にも恐ろしい結末が待っているのではないか……と、翌日、続きを開いたところ……。

結末は、わたしの目から見れば、拍子抜けするくらい、あっけないものだった。

小説が物語を盛り上げ、読者を引き込むことに成功するのは、フィクションであることを超えて現実の世界に影響がおよぶ印象を与えたときではないか。
だが、フィクションはあくまでもフィクションである。
最終的には、物語の結末は作品内の舞台装置によってしか導くことができない。
フィクションがフィクションとして完結してしまったことがわかると、その魔法はすぐに解けてしまうのだ。

同じようなガッカリ感を、アニメ「東のエデン」でMr.OUTSIDEの正体が明かされたときに覚えたことがある。

なんどもなんども読者を引き込むことに成功しているという点では、本作は非常によくできている。
その引き込み方はあたかも週刊連載の漫画のようである。
続々と読者の期待を引っ張る作品構成をしている点からして、夢野久作はあくまでも娯楽小説のテクニックを用いているのだろう。
奇書と呼ばれるドグラ・マグラは、やはりあくまでも探偵小説なのだ。

ということは、「読んだ人は発狂する」という本作のうたい文句もまた、あくまでマーケティングの産物でしかなかった。
ドグラ・マグラサブカルチャーの古典として読み継がれているということ自体、文化系の人間たちが、夢野久作マーケティングに乗せられてしまっているだけなのだろう。

 

 

 

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

 

 

 

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)