「多数派」を信じない、信じられなくなったことと、広告について
最近、シモーヌ・ヴェイユを読んでいる。
ヴェイユの文章を読んでいると、とても心洗われるような心地になる。
しかし、根本的に自分はヴェイユのようになれないだろう。
読んだことがある人なら誰でもそう感じるだろうが、あまりにも理想的な人生すぎるし、自分はそのために死ぬことは到底選べない。
ということを前の記事に書いたのだが、
http://kachiuchi.hatenablog.com/entry/2019/06/10/173551
もうひとつ、ヴェイユの文章で、これは考え方が違う、ということがある。
それが、人間が賢いと思っていることである。
人間は賢いのか?
シモーヌ・ヴェイユの文章を読んでいると、人間の知性を信頼しているように感じる節がある。
人間は誰でも、知性を持っていて、理想に向かえるはずだ。
という、一昔前の思想家にも感じる思考。
しかし、自分はそのことを信じることができない。
大多数の人間は、理想に向かうことができないし、そもそも理想がなになのかもわからない。
自分もわからない。
そもそも、ほとんどの人はなにも考えておらず、やってきた情報をそのまま処理しているだけではないのか。
広告を敵視していることについて
自分が大多数の人間というものがよくわからなくなったのは、かつて少しだけだが仕事で広告関係をやったときだった。
ウェブ広告だったが、自分から見ると、広告としてのテクニックはあからさまだし、なぜこんな明白に宣伝とわかるものを見て、商品を買っていくのかわからなかった。
なぜか、安易なテクニックを使うと、クリックされて、商品が買われてしまった。
また、テレビを見ていて感じたこともある。
最近、病気で入院して、久しぶりにテレビを見るようになった。
それで感じたのが、民法の番組で使われる、視聴者をひきつけて、その場にとどめていくためのテクニックがあまりに露骨であるということである。
昔から、CMを見させるための演出が嫌いという人は多かったと思う。
だが、そのような批判があるのに、その演出をやめないということは、そうしたほうが商売上の結果がよいということだ。
ネット上の広告もそうだし、さまざまなスマホアプリで表示されるキャンペーンもそうだ。
自分はポイントカードを基本的に作らないが、それも、自分の店で無駄遣いをさせるための、販売者にとってメリットがある施策だと思っているからだ。
無料と書いてあるものは無料ではない。
なんらかの対価を払っている。
「かんたん」と書いてあるものは、簡単さと引き換えになにかを奪ってくる。
そんなことは、わかりきっているではないか。
だが、それらを使う人のほうが多数派だ。
理解ができない。
インターネットの変質について
この記事を書いているのが2019年。
それまでの数年で、インターネットはずいぶん変質してしまったと思う。
それは、いわゆるネットを使いこなしていた層以外の利用者も含め、「インフルエンサー」的な考え方が普及しきってしまったことだ。
SNSで名声を確立している人。
どんな小さな趣味のクラスタにもいる有名人。
彼らが使っている手法は皆共通のものだ。
つまり、広告宣伝の手法そのものだ。
ウェブの本質が広告になってしまって、なにが楽しいのか。
しかし、そういうウェブが楽しいほうが多数派らしい。
権力者には勝てないということ
自分は政治に期待していない。
それは、政治が変わることはできないと思っているからだ。
その理由は、権力を持つ人も、けっきょくは広告宣伝を味方につけているからだ。
広告に疑問を持たない、もしくはスルーしてしまい拒否しない人に影響を持つのは、どうやら簡単であるらしい。
いま、政治や経済で権力を持っている人に対して、そのお金を用いて広告を打つのは非常に簡単だ。
いっぽう、それに対抗しようとする人が、本気で打ち倒そうとするなら、広告で対抗するしかない。
しかし、少数派であり弱者である人は、権力者ほどのお金もないし、広告宣伝のセンスもないので、勝つことはできない。
(これは日本だけなのかもしれないが、弱者やオルタナティブをやろうとする人、そして「既存の左派」は絶望的に広告が下手すぎるとも思う)
(弱者が「新しい」宣伝をしようとするときに、少し前のSEALDSや最近のデモのように、なぜクラブ文化やダンス文化のような、一見格好良いかもしれないが多数派にリーチしない手法を使うのかまったく理解ができない。みんな、そういう自由かつ先端の文化をそんなに求めていないと思う)
日本だとたとえば自民党が与党である。
それに対して、広告宣伝で勝ちうる政党があるとしたら、それは維新のようなポピュリズム政党だろう。
そうなったら、それはそれで現在より悲惨なことになるだけだ。
トランプが勝ったのとまったく変わらない。
(私は病人かつ弱者なので、ポピュリズム政党が強くなったときに、福祉が真っ先に切り捨てられるだろうと危惧している。さらに、少し前の生活保護叩きのように、ポピュリズム政党の宣伝活動のなかで、弱者を敵と認定することが行われるだろうとも想像している)
(ポピュリズム政党が危ないのは政治思想を問わない。たとえば自分は、政治家のなかで山本○郎には明確に敵意を持っている。なぜならば、オルタナティブであろうとしすぎて、アンチ医療であるとかアンチ科学である人間に対して、警戒心が皆無だからである。私は病人なので、アンチ医療は敵である。ただ、それを主張するときに問題なのは、なにが反医療であるかを見分ける方法を明文化できていないということである。しいて言うならば、上記のようなわかりやすい広告宣伝手法を用いている人物・団体はほとんど詐欺だと断定できるだろう)
信じない結果どうなったか
近くの人を助ける。
友人、知人といった、実際に顔を見知っている人と関わって、日常をやっていくということがひとつ。
ただし、そのなかで深い関係を保っているのは、ここまで述べてきたような思考が、(完全に共有するのではなく)伝わると思っている人になっているのだろう。
広告から離れる、ということについては、インターネットから距離をおいている。
最近は図書館が楽しくて、楽しすぎて仕方がない。
(図書館含め公共施設の維持ということでいえば、これもポピュリズム政党よりは自民党のほうが相対的にまだマシである)
そもそもこの話を思いついたのは、シモーヌ・ヴェイユを読んでいたことのほかに、朝日新聞で、「自民党を支持する貧困層」について書かれていたこともきっかけだった。
自分の立場としては、基本的には野党に入れるけど、ポピュリズム政党がでかくなるくらいなら、自民党のほうがまだマシ、ということだ。
とにかく、なにごとも急進的なのはよくない。