倉田百三 『出家とその弟子』

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春の終わりに当時親しかった人に、この本を読むことを勧められて、やっと読むことができた一冊。

自分は、はっきりいってこの数年恋愛がすべての問題になっている。
むしろ恋愛というよりも、愛着障害のような問題であるとも指摘されている。

そんな自分に対して、その人は非常に的確な本を勧めてくれたと思う。

 

 

 

出家とその弟子


出家とその弟子は、親鸞とその弟子・唯円、そして息子の善鸞を中心に、史実を脚色して描かれた作品。

ひとことで言えば、愛についての作品である。

愛。

愛と恋と(そして性欲)の違いが自分はついていないのでは、というのは以前から思っていることだ。
(ただ、この本の描き方では、恋と性欲は同じものなのかも知れない。それが一方的なものである点において)

愛とはなにかというと、おそらく、他者を他者として承認することなのだと思う。
それはこの本に描かれているのも同じことだ。

愛と恋の違いは、自分が中心であるか、他者が中心であるかということだ。
たとえば、どんなに相手に恋い焦がれていても、自分が身を引くことこそが愛であるという場面は数多い。

自身が相手に恋い焦がれることで、相手も、自分も、周囲の人も傷つけるような場面。
とても身に覚えがある。
身に覚えしかない。

自身を見返してみれば、視野狭く突っ走ったために、関係性に破滅を招いてばかりである。

ただし、本書が指摘するのは、その事実だけだ。
物語として、その解決がどのように、親鸞の弟子、唯円の内面で行われたかは描かれていない。

つまるところ、それは自分が変える、変わらなくてはならないことなのだ。
あくまで提示しているだけ。
だからこそ、この本が、若く恋に悩む人の間で長く読み続けられてきた、ということなのだろう。
……と書いたところで、その考え方も本書のテーマとはズレていることに気がついた。

愛と恋の問題に触れているのは、最後のひとつ前の章までである。
最後の章では、そんな罪を自覚した人の考え方がメインのテーマとなっている。

結局のところ、(この本では仏の)救いを信じなくても、すべては救われている、ということが結論だ。
これは受け入れるということなのだろう。

自分は、たとえば死の受容という概念や、障害の受容という概念を突っぱねようとするところがあって、
死はともかくとして、たとえば精神の不調といったものは、戦う対象だと考えているところがある。
受容することが上に見られる、ということがなんだか嫌なのだ。
負けを認めたくないのだろう。

しかし愛というのは、そういうところにしかないのかもしれない。
(ただ、日常の生活が常に戦いである中で、そんなことをしたら生きることができなくなるという恐れがある)

 

この本について


親鸞と周囲の人々をモチーフにしているが、背景にあるのはキリスト教だということはひとめでわかった。
じじつ多くの書評や解説でも、この本の成立にキリスト教への傾倒が影響していることは指摘されている。

この本における親鸞は、明確にキリストをモチーフに描かれているといって間違いない。

たまたま、この本を読んでいるときに真宗の思想を研究している人と出会ったのだが、その人は本書をぱらぱらと見て、真宗の思想ではなく、モチーフに使っているだけと看破していた。

とはいえ、だからといって本書の価値が下がるわけではまったくない。

そもそも聖書と歎異抄は類似性を指摘されることが多いらしい。

自分はいま、キリスト教から離れつつあるのだが、しかし、根本的な解決は、この愛という問題にしかないのだ。

 

 

出家とその弟子 (新潮文庫)

出家とその弟子 (新潮文庫)