3年間
聖書には特別な数字がいくつかある。
7、40。
そして、「3」もそのひとつだろう。
ふと、自分の人生は3年ごとに、3年周期でひとつの区切りができているのだと思い至った。
そして、いままさに、その3年の区切りが明確に終わりを迎えたのだ。
具体的には、大切な人、一時は結婚しようとさえ思い、それが不可能だとしてもおそらくこれから一生関わりあって生きていくだろうと思っていた人の死。
それによって3年間のループは終わった。
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小学校。
前半3年と後半3年は別の学校に通い、前半は問題児としての、後半は人としての落ち着きを獲得する期間だった。
中学校。
高校。
そして、自分は大学に6年通った。
前半は自転車サークルと、古書店でのアルバイトに明け暮れる3年間。
後半は自身のメンタルに戸惑い、そして、文学部の学生としての自覚が生まれ、以前よりは授業に出るようになり、興味のままに授業に潜り、知的好奇心を追った3年間だった。
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次の3年間、つまり前回の3年間。
2011年、おそらくは震災から、2014年のはじめまで。
自分が「やりたいこと」、具体的には写真を追求しようとし、精神の病への絶望から立ち直り、そして他人より遅い初めての恋愛に明け暮れた期間だった。
前回の3年間の終わりはカタストロフだった。
写真を行うことを明確に諦めた。
写真関係のものや趣味の道具、書籍といった形のあるものをすべて捨てた。
精神的にも、それまで好んでいたものをすべて捨てた。
そして、その終わりのときには、路上で絶叫し、入院こそしなかったが医者に運び込まれ、わかりやすく精神的な破綻を迎えたのだった。
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さて。
それでは、いままさに終わりを迎えた3年間は、どんなことがあったのだろうか。
2014年から、いままで。
いくつかのことがある。
まず、自分が発達障害であると言われたのが、ちょうど、そのはじめのころである。
発達障害というカテゴリの人間関係のなかでは、多くの人と出会い、多くの影響を受けた。
世を去った人と出会ったのも、発達障害関係のコミュニティでのことだった。
教会に通い始めたのも、この3年間のはじめのことだった。
そして、仕事。
それまでの自分は、そもそも自力で生計を立てていなかった。
それが、まずは前回のループの終わりで自暴自棄になり、すべてから逃げ出そうとしたことで否応なしに自力で金銭を得なくてはならなくなり、多かったり少なかったりはするが、基本的には自分の手で、生活費を稼ぐようになったのだ。
もうひとつは異性。
この3年間で何人かの人と交際した。
1ヶ月で別れた人もいた。
かつての恋人とよりを戻して、結局失敗したこともあった。
そして、一番長く交際し、同居し、互いのことをすべて話し合ったのが、今回世を去った人だった。
異性。
恋愛。
誰かと生きていきたいと願い、でも誰かとずっと生きていくことが叶わず、ふらふらと、あてもなくさまようのが、この3年間だった。
誰と生きていくか。
誰かと生きていくことができるのか。
それを探していたのだった。
だが、探してばかりで一箇所に落ち着くことをしなかったのだった。
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彼女の死は、明確に自分の人生についての区切りだ。
しかも、おそらくはこれまでの人生でいちばんの大きな区切りだ。
前回の3年間の終わりは一種のカタストロフだったが、この3年間の終わりは、それとは比べものにならないカタストロフである。
ひとつのループが終わった。
急に終わった。
唐突に終わった。
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いま終わったばかりのループは、発達障害と信仰、仕事、そして異性が大きなテーマだったのだろう。
その前にあったループは、絶望からの回復と写真=自己表現がテーマだった。
そして、次のループが、おそらくは始まる。
そのループが、自分にとってどんなテーマをもったものになるのかはわからない。
過去のループの意味は、それが終わったときにしかわからなかった。
いまは、こうしてひとつの区切りが終わってはじめて、その時間が自分にとってなんだったのかということに気がついたばかりである。
しかし、いま、この瞬間。
遅くとも明日か、明後日には次のループが確実にはじまる。
生きている意味や目的、すべてが変わるに違いない。
それは確信に近い。
これまでの時間と、これからの時間はまったく別のものになることだけはわかる。
どんな時間になるのかはわからないが、死んで、生まれ変わることを感じる。
彼女の死は、自分を終わらせてくれた。
そして次の時間を与えてくれた。