須賀敦子がわずかに読めるようになってきた(コルシア書店の仲間たち)

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数年ぶりに思い立って、須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」を読んだ。

 

この本を初めて薦められたのは大学生のときで、いまは新聞記者になっている文学部の友人から、ぜひ読むべきだと推薦されたのだった。

だが、そのときは文字を追うことだけがせいいっぱいで、単に目から入り込んで排出されていくような、まったくピンと来るものではなかった。

 

 

 

「コルシア書店の仲間たち」は、若き日の須賀敦子がイタリア・ミラノで過ごした日々を書いた一冊である。

ときには理想に燃え集まった仲間、またときには流れ着くようにして繋がった仲間、そんな仲間が集まり、そして散じていく日々を、ひとりひとり描いているのだった。

 

淡々とした日々の中にある、傍から見るとわずかな変化、しかしひとりの人間にとっては人生を大きく変える変化。

異邦人であるとともに仲間でもある須賀敦子の立ち位置が、懐かしい思い出を客観的だが情緒あふれる描写で紡がれているのだ。

 

だが以前読んだときにはピンとこなかった。

なぜこの本がいまひとつわからなかったのか。

 

もちろん、文字を追うこと、読むことを急ぎすぎていたこともあるかもしれない。

本は知識を追うためや会話の種にするためのものだという意識が強かったからなのかもしれない。

 

しかし本当には、人間はそれぞれ別々の生を生きていることを知らなかったからなのだろう。

 

あとがきの最後に記された言葉、須賀敦子がほんとうに伝えたかった言葉は、人間が生きることを始めるために必要なことを的確に指摘しているように思える。

 

 

コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前身しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しなかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。

若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。

 

須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」(文春文庫)p.232 より引用

 

 

 

この文章をそのまままるっきり、その大学の友人は自分に対して、素晴らしいことばとしてほめたたえていた。

そのときにはまだ、この言葉がなぜ素晴らしいのか理解できなかったが、いま、わずかにその意味が伝わりはじめている気がする。

 

その友人がなぜ、自力で、しかも20歳そこそこでその素晴らしさに気づくことができたのか、それはわからない。

結局自分は、クリスチャンになって、そして「カトリック須賀敦子」という先入観を持って読み返すまで、この本が描いていることを味わうことができなかった。

 

それとも、単に年齢を重ねることで心や感性が大学生だった彼に追いつかたのかもしれない。

 

孤独は、生きることは荒野ではない。

おそらくそうなのだろう。

だがそれは、一旦荒野を見ないことには、知ることができなかったのかもしれない。

 

 

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)