教会で猫をかぶることはみ心にかなうか
キリスト教の教会の話なのですが。
最近教会内の一部のひとに、どうやら自分が教会で猫かぶりであることが知られてきた。
というのは、素の自分は下ネタも言うし下品な冗句だって脳内にはたくさんあふれかえっている。
仕事でアダルト関係の案件を扱ったことだってある。
それでも、教会の人の前ではできるだけ、きちんとしていよう、ちゃんとしていようと猫をかぶってしまうのだ。
下品な自分=正しくない自分
どぎつい下ネタを言う自分。
それを隠してしまう理由は、その自分が正しくないと思っているからである。
聖書で「罪」という言葉はもともと「まとはずれ」という言葉を意味すると聞いたことがある。
まさに下品な自分は、そのときはよくてもあとではっと気づいたときに、人として的外れな行為をしていたなぁ、と毎回思ってしまうのだ。
正しい自分になりたいから猫をかぶる
さて、人はだれでも付き合う相手によって顔を使い分けるものだといわれているが、自分にとって教会での人付き合いは、たしかに猫をかぶった、仮面をかぶったものである。
なぜか、自分では普通にしているつもりなのに、おばちゃんたちに可愛がられてしまっている気がする。
しかし一歩外に出れば正しくない自分に戻ってしまうのだ。
理想の自分=正しい自分。
ほんとうは自分は正しい自分でありたい。
そうなるためには、正しい自分がなすべき行為を少しずつしていくことが近道なのだと思っていた。
神のみ前で猫かぶりは正しいのかという問題
しかしながらつい最近、教会の同年代の人、自分が猫かぶりだとわかっているひとから、こんなことをいわれた。
「神様の前で嘘をつく態度は間違っているのではないか?」
というふうに自分は受け取ったわけだが。
正直なところ自分が猫をかぶるのが正しいのかはわからない。
確かに、表で正しい顔をして裏では下品であることは、明らかに正しくない。
しかし、本当はその、正しい顔になりたいのに……。
そもそも、そこはクソ真面目に考えるところではないのかもしれない。
それを考えてしまうと生きていくこと自体できない。
しかし、たしかに猫をかぶる生活は疲れる。
この1年、教会の人に対して自分のダメな面も見せ迷惑をかけてしまったこともあったが、それでも自分の本質的な下品さ、下世話な部分は見せないように心がけてきてしまっている。
というよりも、沈黙していれば自分がおかしい人間だとバレない、とさえ思ってしまってる。
そう考えるとたしかに正しくない気もする。
落としどころとしては、その正しさに近づいていく過程こそが信仰であり人生なのだと思うのですが、実際のところどうなんでしょうか……。