「病人なのだから憐れまれて当然」 誤解のキリスト教
「病人には憐れまれる権利がある」という心理に陥ってはいないか。
つまり、それは自己憐憫そのものである。
自分を可哀想だと思うことである。
不調なときに神を信じられるか
ようするに、
『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』
『わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである』
(マタイ9:12〜13)
ということを、自己憐憫に利用したという話である。
病気を隠す
一昨年くらいに教会に通いはじめて、昨年洗礼を受けた。
それで、おおむね毎週教会に通ってきたし、仕事もこれまでの人生でいちばん順調だった。
現世利益ではないが、教会に通っていることで、心理的な安定を得られる気がしていたのだった。
しかし、自分としてはどこか、教会では猫を被っているような意識があった。
具体的には過去にメンタルをやってしまっていることで、そのことを恥だと思うのと、病人扱いされたくないので、教会では基本的に、牧師など数人以外には知られないようにしてきたのだ。
病気がぶり返す
さて、調子が上向いているときはよかったのだが、急に働けなくなった。
配慮してもらって会社には所属したままでいられたが、まず、1つ目の大きな挫折をした。
それが今年に入ってからのことなのだが、日曜に週1回しか行くことのない教会では、さも体調を崩したりしていないかのように、普通に礼拝に出、奉仕もしていた。
それどころか、仕事がうまくいかないのを埋め合わせるかのように、いろいろな役割を、やりますやりますと引き受けていたのだ。
引き受けるといっても、週に1回のことだし、遅くても午後5時くらいには終わることしかないので、全く問題ないと思っていた。
しかし今思うと、典型的な代償行為である。
教会でもコケる
しかし、会社に休み休み行ったりしているうちに、本格的に体調を悪化させて、朝起きられなくなった。
風呂に入るのもしんどい、というような状態である。
いちばん大きかったのは朝起きることができなくなったことで、平日に会社にもいけなくなったし、日曜に教会で午前中の礼拝に出ることもできなくなった。
教会に行けないのだから、引き受けていた奉仕にも穴をあけてしまった。
叱責されることを怖がる
さて、会社でもそうだし、教会でも同じだったのは、自分がするべき仕事に穴をあけることの恐怖だった。
具体的には、叱責されることの不安である。
布団を被っている間、脳裏には仕事を放り出したことを追求されることばかりが渦巻いていたのだった。
また、その不安から逃れるために、暴飲暴食をしたり、依存的になったりもした。
そんなことばかりを繰り返しているうちにたどり着いた思考が、「病人なのだから憐れまれて当然」という考えなのだった。
「体調が悪い」という言い訳
会社についてはともかく、教会に対しての「体調」は言い訳なのだった。
奉仕の委員への欠席連絡
いくつかの奉仕関係の委員や、教会の牧師に対して、委員会のミーティングなどを欠席するという連絡メール。
そのときに書いていたのは、体調が最近悪く、ということだった。
もちろん体調が悪い、というのは正当な理由だろうが、それを何度も何度も繰り返したことは、自分は体調が悪い病人である、という自己暗示と、教会関係者への印象付けを狙ってはいなかっただろうか?
体調が悪いなら無条件に憐れまれるか?
自分は体調が悪い。
それが申し訳ないどころか、叱責されることが怖い。
それがいつしか反転して、病気になれば許してもらえるに違いない、という思考に変わる。
つまり自己憐憫である。
ルカによる福音書(18:11)の例え話に、「自分が正しい人間だとうぬぼれて」いる人の典型例がある。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します』
しかし、この例え話の登場人物は『週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げている』のだから、何かをしているだけ、まだよい。
もちろん、そのような人よりも、低く、小さく「された」人が高められる、尊い存在であるというのはイエスの教えの1つである。
しかし、それを逆手に取って、自分が高められるがために、自ら罪を重ねるのは勘違い甚だしい。
具体的な罪ならまだマシなくらいで、心の奥底から自分は弱く小さいに違いないと確信してしまうのは精神的に自殺しているも同然だ。
仏教で言うなら、悪人正機説を耳にした犯罪者が喜んで罪を重ねるようなものである。
処世術として貧しく病気になる
闇金ウシジマくんの某篇でも描かれていたが、処世術として貧しくなる、病気になる人は確実に存在する。
それこそが自己憐憫の本質なのかもしれない。
ただし、それを実行する本人は、確実に心理的に非常に辛い。
楽をすることはできない。
そして、そのような処世術を排除するために福祉制度を変えるべきではない。
そして、想像上の人物を恐れる
さらに進行していった末、会社の上司、同僚や、教会の他の信徒にどんどん心理的負い目を感じていったのだった。
教会に関していえば、新入りの自分が仕事に穴をあけて、もうおしまいだ、合わせる顔がない、という心理に陥ってしまっていた。
だが誰も気にしていなかった
結局、自意識過剰なのだった。
2ヶ月近く、朝起きることができずに教会に行くことはできなかった。
しかし、ある日曜に午前に起きられたので教会に久々に行くと、とくに何事もなかったのだった。
午後に、本来自分がするべきだった奉仕の続きを手伝うと、当然かもしれないが、とくに怒られることもなにもないのだった。
また、偶然少し上の世代の信徒の方とお茶をしたところ、自分のできる範囲のことだけすればいい、それでも充分してもらっているのだから、という旨のことを言われて、それはそうだ、となったのだった。
(ネット関連のことなど、在宅でもできる奉仕は、可能な範囲で続けていたこともある。これも自画自賛になりかねないが)
とにかく、自分が怖がっていたのは、想像上の人間だった。
ただし、メンタルはバレバレである
しかし自分に対して、ちょっとこの人は無理していたんじゃないか、もう少し優しく扱おう、という視線があることも感じたのだった。
ようはバレバレなのだ。
それどころか今思うと、隠しているつもりでも、病気だかなにかしらないが、何かがあるというのはバレバレだったのかもしれない。
むしろ、ここまでこじらせてしまったのは、メンタルをやってしまっていることを、いわばケガレのように恥ずべきものだと思っていたからだともいえる。
それを隠したいがゆえに、能力を超える無茶なことをしてしまったのだと思っている。
自己憐憫とは違ったベクトルで、自分は病人である、という認識をするべきなのだろう。
その病人とは、すべての人が罪人、と言ったときの「罪人」と同じ意味である。