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別冊宝島「いまどきの神サマ」なぜ80年代、新興宗教だったのか

考えたこと 文化 書籍

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古本屋で、別冊宝島の「いまどきの神サマ」というのを買って読んだ。

1990年に出たこのムックは、1980年代のオカルトや新興宗教、精神世界を振り返り、同時代について記録した一冊である。

冒頭に取り上げられているのは、かのオウム真理教
しかも好意的に取り上げている。

そのオウム真理教についての取り上げられ方を見て、なぜ80年代の若者が、伝統宗教ではなく新興宗教を求めたのか、時代の雰囲気がわかった気がした。

 

 

なぜ伝統宗教ではダメなのか

いま80年代を振り返ったときに、一種の黒歴史となっているのがオカルトや新興宗教ブームだろう。

80年代のそういう嗜好は、いまでもニセ科学やスピリチュアル、過度の自然崇拝のように、形を変えて生き残っている。

ただ、後出しでそういう怪しげなものを批判することはできても、当時の人が、なぜそんなものに惹かれたのか、いまひとつわからないのだった。

なぜ新興宗教なのか。


仏教でもキリスト教でも、パワースポットとしての神社めぐりでもいいじゃないか。

その疑問が、「いまどきの神サマ」のオウム真理教についての記事を読むことで氷解した。
時代の空気が新興宗教を求めていたのだ。

オウム真理教についての記事

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本書では、オウム真理教の末端信者へのインタビューや潜入取材、当時の気鋭のライターによる論考を収録している。
未読だが80年代前世少女や、初期の幸福の科学についても大きく紙面を割いている。

オウム真理教への論調は基本的に好意的だ。
そのせいで地下鉄サリン事件ののち、著者のひとり宗教学者島田裕巳はマスコミから袋叩きに遭ったという。

坂本弁護士一家がすでに殺害された時点での刊行だが、同事件についても擁護している。

いまとなっては後出しで物事を語ることができるので、歴史資料でしかないのかもしれない。

しかし、時代の空気を封印してくれたことで、なぜ80年代の若者にとって伝統宗教ではなく新興宗教が選ばれたのか、ということが手に取るようにわかったのだった。

伝統宗教は体育会、新興宗教は文科系サークル

一気に疑問が氷解したのは以下のような記述だった。

大意としては、

政治の季節が終わって久しい80年代、大学はレジャーランドだった。
しかし、そんな大学に馴染めず人生に、自分の存在意義に悩む若者も、当然多数存在した。
彼らの受け皿になったのが新興宗教だった。

ということだ。
しかし、同じ宗教でも伝統宗教が受け皿になれれば、オウム事件のような末路には至らなかったのではないか?

 

しかし、伝統宗教ではダメだったのだ。

本書ではオウム真理教を、大学のサークルの溜まり場のような場所、として描いている。
末端信者にとって、上層部が何をしているかを知るはずもなく、単に居心地のいい場所が新興宗教の本質だったのだ。

一方で、すでに組織化された伝統宗教は居場所になりえなかった。
上の世代、大人がいるし、宗教活動に強制的に動員されてしまう。

80年代には末端信者の若者にとって、新興宗教は文科系サークルのような緩い繋がりに見えた。
いっぽう伝統宗教は、体育会系運動部に見えてしまったのだ。

リア充のための宗教

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オウム真理教が70〜80年代オタク文化に多大な影響を受けているのは有名だ。

コスモクリーナーという固有名詞や、ヤマトの替え歌の宗教歌。
安っぽい80年代エスパー漫画のような自意識。

だか、そんなファンタジーだけに浸ることができる世界を作ろうとして、その結果あんなことになってしまった。

オウム事件が、「無敵の人」に近い、非リア充の弱者が起こしたヤケクソの行動に見えるのだった。

リア充を宗教は救えるか

マッチョ側の人間は、かりに宗教に救いを求めても、組織化された伝統宗教で幸せになれる。

宗教は絶望した人間の最後のよりどころだ。

しかし、80年代の新興宗教を通して、非リア充を宗教が救う試みが失敗してしまった以上、伝統宗教に馴染めない人は何に救いを求めればよいのか?

伝統宗教の歩み寄りと危険

かといって伝統宗教が歩み寄るのも危うさがある。

いま伝統宗教に向かう人には、結構な割合でメンタルを病んだ人がいる。
しかし高齢化もあいまって、若い非リア充に合わせてしまうと、おそらく20年後30年後に伝統宗教団体もたちゆかなくなるだろう。

また、伝統宗教が門を広げすぎてしまったら、新興宗教のさらにデッドコピーに堕してしまう。

狭き門から入れ、というのは宗教の鉄則なのだろうが、体育会に合わない人が、可哀想な人としてではなく宗教に関わるにはどうすればいいのだろうか?