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宗教的発言をするようになった自分への戸惑いと嬉しさ

キリスト教 考えたこと
プライベートなことであるが先日洗礼を受けクリスチャンになった。

そのことで、なぜ教会に行くようになったのかとか、宗教に向かったのかはなぜかということを聞かれて、親しい友人に答えたのだった。

答えというか説明というか、決定的に自身を向かわせたのは、以下のようなことがきっかけだと話した。
「自分自身の存在価値を見失っていた、自己への愛を完全に失っていたときに、しかし神様は価値を与えてくれると思った」
遠藤周作の小説と、矢内原忠雄の本がきっかけだったと思うが、人の一生を通じて神はその存在を証明する、そういう内容を読んで、とても救われた。

ということを説明したのだが、どうも言葉の選び方というか、話し方が、自分自身でもわかるくらいに、宗教のひと然としたものになってしまって戸惑ったのだった。
(実際に言いたいのはそんな安っぽいことではないのに)神様にそう言われたとか、導かれたとかそうとられてもおかしくない言い方になってしまうのだ。

いや、導かれたのだろうとは思っているが、言葉にするとなにかしっくりこない。

だが、はからずも自分がそういう発言をしてしまったことで、宗教を信じるということがなんだかわかった気がしたのだった。
なぜ、宗教のひとは宗教的な話し方になるのかがわかったのだった。
どうしても、そういう話し方になってしまうのだ。
常人には、完全に言語であらわすことはできないのではないか。

もしかしたら言葉は徐々に獲得するのかもしれない。
だが、もともと知っている単語でつむいだプリミティブな言葉に、手前味噌だがなんだかかけがえなさを感じてしまったのだった。