三浦綾子 「道ありき」

薦められて手に取り、一気に読んだ。

<青春編>とあるとおり、著者の30代後半に至る、長い若い日を書いた一冊だった。

 

本書もまた、クリスチャンの著者の、信仰に至り、またその只中での思い描いたことなのだが、どうしてか、まず引き込まれたのは、冒頭の虚無感に完全にとらわれている著者の姿だった。

 

豊かな中で、とくに直近の生活に困っているわけでもないのに生きることを見失っている私自身と、戦中に教師を務め、価値観の崩壊のなかで虚無に至った著者は、まったくもって異なるし、そうやって同じ「虚無感」だと言うことさえはばかられる。

それくらい私の虚無感は小さいものだが、それでも、生の実感がなしにいることや、いっそ死んでしまったらいいと思い、しかしその「死ぬこと」に対してさえも真摯でいられないことなど、共通性があると思ったのだ。

 

もちろんそれは本書の冒頭もいいところなのだが、しかし、そういう人であったことからのスタートだったことは、(自分勝手はなはだしい感想として)私自身の生に希望を見出させたのだった……。

 

*     *

 

愛することの一つの解として、一人の人格として尊重することがあると思うのだが、本書にあったのも、おそらくそれなのだと思う。

そして著者にはそういう人がいた。

ともすれば、時代の荒波の中で、人格としての尊重ではない愛のドツボに嵌った可能性さえあったかもしれない。

だが、そうならなかったのは、本当に愛した人、愛してくれた人がいたからなのだった。

 

信仰の記であるが、その内実は、愛することの記なのだろう。

 

*     *

 

本書を読んだ感想は、はっきり言ってそうそう軽く書くことができない。

普段blogには適当に投稿しているが、自分自身がちっぽけすぎて、悩み、死のうとさえ思う原因がどうでもよいことすぎて、重ね合わせることが安っぽすぎて、何も書くことができなくなってしまう。

 

とても単純な感想として、脊椎カリエスの治療のため、数年間も横になったまま仰向けになっていた著者の体験は壮絶だ、というものがある。

だが、そんなことを思うことも安っぽすぎると思うのだ。

 

*     *

 

もっとも心を打った部分、一度だけ涙ぐみそうになったのは、

著者を信仰に導き、結核で世を去った恋人の前川正の遺言の一節だった。

「生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束」した著者へ、

「万一この約束に対して不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!」

と語りかける。

人生の過酷を直視して生きることを求めるこの言葉が、真実味をもって迫ってくるものだった。

そう、人生に不誠実であってはならない。

誠実に生きなければならない。

消極的に生きるのではなく。

そして、生きることをやめてはいけない。

その戒めを受け入れた著者は、本書冒頭の虚無感にさいなまれる人間ではもはやなかったのだ。

 

道ありき―青春編 (新潮文庫)

道ありき―青春編 (新潮文庫)