「そう考えるのは私だ」
今年に入ってからだと思うが、いつの間にか身につけたメソッドがある。
記事タイトルにした、「そう考えるのは私だ」というものだ。
私は、ほかの全ての人間と同じく、不安になることがある。悪い考えを持つことがある。
いや、常にそういう状態であると言っても過言ではないかもしれない。
特にこの過去一年くらい、いつも悪い思考や情緒にとらわれて生きていた。
そういう状態は今でも変わっていないが、少しだがマシになったと思えるのは、このメソッドを知ったからかもしれない。
メソッドと言っても簡単なことだ。
悪い考えにとらわれたときに「と、私は考える」「そう考えるのは私だ」と念じるだけだ。
口に出して言ってもよいかもしれない。
「私は死んでしまいたい」「と、私が考えている」
「私は自分がいなくなればよい」「と考えるのは私だ」
「良いことなんてこの先あるはずがない」「と私は思っている」
そう思っているのは事実だが、しかし、単に私が頭の中でそう考えているだけで、実際にそうなっているわけではない。
死んでしまいたいと考えたとしても、べつにそうしなければない理由がどこにあるわけでもない。私自身が勝手に絶望しただけなのだ。
だから、そうする理由なんてどこにも存在しない。
このことを考え出す前、友人が私に指摘してきたのは、自己憐憫の情にとりつかれているというものだった。
自己憐憫は自分を可哀想に思い、そのことに酔ってなにも建設的なことをしなくなることだが、思考が単に思考でしかないことを相対化し、明言することは、不安な思考回路を相対化して、負のループから抜け出させてくれるのだ。
私たちは自由意志を持っている。
私たちは自由意志で、よいことも悪いこともできる。
そして、なにをするか決めるのは自分自身で、自身に全責任がある。
よりよく生きることくらいしか私にできることはないが、それでも、その、唯一誰かのためにできることは、自己を客観視することからしか始まらない。
自己を客観視するツールはいくつもある。そのいくつかを用いて、自分がよくあれることを信じたい。