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小島剛一 「トルコのもう一つの顔」

昨日、クルド人の祭のネブロスに行ってきて、自分がこの地域について何も知らないことを痛感した。

そこで、以前から読みたかった本である、トルコの少数民族について書かれた「トルコのもう一つの顔」を早速読んだのだった。

 

 著者の小島剛一は言語学者で、トルコ語の方言研究を行ったことをきっかけにトルコの少数民族に関心を持ち、そのために国外退去と国外追放の二度の処分を受ける。

国内の少数民族問題を認めないトルコ政府にとって、少数言語、少数民族の存在を公の問題にする著者の行動は好ましくないものとされたのだった。

本書は著者が一回目に国外退去処分を受けるまでを描いている。

 

著者はblogも運営しており、フランスに暮らす日々と、時事問題なども綴っている。

F爺・小島剛一のブログ

 

本書の冒頭、ヒッチハイクと自転車でトルコを旅した著者が、一気にトルコ熱に取り憑かれるところから話は始まる。

私も自転車旅行に熱中したものとして、いつかトルコの大地を走ってみたくなるような名調子だった。

 

だが、本題の少数民族について描くようになると、この国には多くの抑圧された人々がいるということが克明に伝えられてくるのだ。

 

イスラーム圏でいち早く独立と国民国家の形成を成し遂げたトルコは、しかし、国民というものを形成するために、少数民族の同化と抑圧を進めた。人工的につくられたトルコ人というアイデンティティのもとで、そこへの同化を拒否する民族を、多数派の国民は冷ややかに軽蔑する。

例えばそれは、イスラームの主流派ではない宗教を信じる者に対してだったりする。

 彼ら自身少数派であるクルド人もまた、同じクルド語を話すが、イスラームのうちでも少数派のアレヴィー派を信じるザザ人を差別したりする。

本書ではまた、当時のトルコでの東部への差別意識も書き残している。 

 

本書で描かれたのは1970年代から1990年までのことで、現在どうなっているかはわからない。

だが、少数民族の言語使用が認められるようになった後の2003年に著者が国外追放処分を受けていることからも、この問題は進行形のものだといえるのだろう。

 

しかし本書を読み感じたのは、一つの国民という意識や、多数派のアイデンティティの危険さということだった。

トルコは大の親日国ということはよく言われるが(それが本当にそうかは別として)、両国は人工的な国民意識を持っていることでも共通している。

国家や民族の枠組みを人工的に維持することから、少数派が悲惨な境遇に追いやられる一部始終を知ることができたが、状況に現在の日本に似通ったものを見出してしまうのだ(日本ではまだおおっぴらなものではないが)。

また付随して、なぜ芸術系、文化系の人々は沖縄を支援し、問題意識を持つのかがわかってきたのだった。恥ずかしながら私は沖縄の立場をそれほど理解していない人間なのだ。

 

 

トルコのもう一つの顔 (中公新書)

トルコのもう一つの顔 (中公新書)