平川恒太の作品について
平川恒太の黒い作品を初めて目にしたのは、VOCA展でのことだった。
今年、2014年の春に上野の森美術館を訪れた。公募展というのはあまり見ないのだが、VOCAだけは別格ということが言われていること、招待券を貰ったので、見に行ってみたのだ。
なるほど、VOCAは質が高いというのはよくわかった。
質の高さというのは、美術マニアにとって、そう見えるという意味でのことだ。
公募展的なアカデミックな臭いを漂わせつつも、推薦され出展された作品からは、現代美術でありたいという作家の願いが垣間見られたのだった。
そのなかで、私は平川恒太の「黒い」絵に共感を覚え、強く惹かれた。
平川の手がけるシリーズのひとつは、歴史的場面を黒の濃淡だけで描く作品である。
絵具の黒の微妙な差によって、遠めには真っ黒に塗り潰されているように見えるキャンバスには、確かに近現代のターニングポイントが描かれている。
そしてVOCAで展示されていたものは、藤田嗣治の戦争画を基にしていた。
藤田がいわゆる戦争画を手がけていたことは有名である。
VOCAの作品の下敷きにされた「アッツ島」玉砕は、「血戦ガダルカナル」や「サイパン島同胞臣節を全うす」などとともに、藤田の戦争画のなかで壮絶なものとして知られている。戦時中、展示作品の前に賽銭箱が備え付けられたという逸話さえある。
VOCAの展示で平川が他の作家と異質だったのは、唯一彼が作家の目とともに、美術史家の目を持っていると感じたからなのだった。
戦争画というもの自体、語ることが近年まで躊躇されていたものだった。
この四半世紀の間に研究の表舞台に立ったが、それだけに、そのような分野に興味を持った人間にとって、平川の作品は大好物そのものなのだ。ニヤリとしてしまう。
日本の近代の中でも通好みの分野であるが、それだけに、平川の作品のなかから、この藤田を持ってきたVOCA推薦者の仕事はすばらしい。
未も蓋もない言い方をすると、「あざとい」。
VOCAの直後、平川は丸ビルでも展示を行っていた。
小規模な展示だったが、沖縄というテーマも含め、歴史という視点を更に知ることができた。
そして偶然だが7月、秋葉原のアーツ千代田3331での個展にも足を運ぶことができた。
この記事はそれをきっかけに書いている。
3331の展示は黒い絵のシリーズで、やはり歴史の場面を描いていた。
作品は額縁の代わりに壁掛け時計に収められていた。3331の小さな展示空間で、統一した作品世界をこれ以上なく提示できていたように見える。
ただ思ってしまったのは、もっと大きな絵を見たいということだ。
べつに私が公募展的120号の大作主義に目覚めてしまったわけではない。
平川の作品には、大きいことの必然性があると思う。
歴史を描くということに作品の大きさが要求されるというのは、もちろん一つのイデオロギーに影響されすぎているのだろう。しかし、日本人が美術を受容する中で歴史を求め、大作を求めたことは確かなことであり、歴史を受容したという歴史自体を、平川は解きほぐしていけるのではないか。
平川が手がけているのは既に一種の「歴史画」なのだ。だからこそ、百何十号かの藤田の大作を元にしたものに魅了され、しっくりくるものを感じたのだろう。
昨年六本木の新美術館でグルスキーに圧倒されたが、もしかするとそのレベルで世界と渡り合える力を感じてしまうのだ。
平川恒太のblog
http://hirakawakenkyujyo.blog104.fc2.com/
作家紹介
http://www.bambinart.jp/artists/kota_hirakawa/index.html