自己を客観視するための宗教
自分は典型的日本人ではない。そういう自意識で生きている。
それでも、生まれたときから東京近郊にずっと住み続けるくらいには日本人がうっすら共有する自意識に支配されているわけで、宗教についての考えについて、なんとなく流されていたのだった。
なくてもいいものくらいに思っていたのだろう。
しかし徐々に、そしてこの幾日かで、「信じる」ことへの思考が動き始めたと感じる。
(あくまでこの文章は自分自身に向けたメモ的要素が強い)
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宗教の存在意義について思ったのは、以下のようなことだ。
もし人間が強ければ、宗教は必要がない。
強いというのは、自分自身を客観視できるということだ。
自分自身を客観視できるとは、脳の中・心理や感情の中に、もうひとつ独立した自我をつくることができるかということだ。
自分自身を、脳の中で律し、歯止めを掛けることができれば、その時点で全てのものから独立しているといってよいだろう。
そんな人間も世界にはたくさんいる。
だが、そうではない人間のほうが多いのは言うまでもない。九割九分を超えているのは確実だ。
だから、宗教、信仰、神というものが生まれたのだろう。
脳の中に「もうひとつの自分」を作り出すのは難しいことだ。
だが、「神様」や「超越的存在」を作り出すことは、比較的易しい。
人間の脳にとって、自分とは別の存在のほうが想像しやすいといってもよいかもしれない。
実はやっていることは「もうひとつの自分」とあまり変わりないのだが、結果として、自身を律し歯止めをかける点では同じ結果を得ることができるのだ。
一種の利用ともいえるし、ツールだともいえる。
私は宗教を、自分自身を客観視するための、思考へと入るためのツールだと捉えるようになりはじめている。
(自力で客観視ができるような強い人間ではないと、やっと認め始めたのかもしれない)
儀式、礼拝というのも、思考にすんなりとはいっていくため、高度にシステム化されてきたものなのだろう。
その点で、仏教が宗教というより哲学に近いという、ヨーロッパ文化圏での認識も、少しわかりはじめている。
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とある宗教に、身近な人の影響で触れはじめたのだが、いわゆる食わず嫌いは既に終わったと思う。
自力で客観視することができないことを受け入れるのは、逃げることではない。
それがわかって、いまもっと知りたくなっている。