正義を実行できない後ろめたさと神の仮定 そしてシモーヌ・ヴェイユ

この入院中、本を読んだり、朝日新聞を読んだりしている中で感じたこと。

いまさらネット右翼のようなことをいうつもりはないが、久しぶりに朝日新聞を読んで、そうか、朝日新聞が嫌われるというのは、こういうことだったのか、ということを思った。
毎日の紙面にある、戦争、憲法、朝鮮……。

なぜそれを、私は嫌うのか。
居心地を悪く感じるのか。
それは、そういった、絶対的な弱者を救おうとする、寛容のまなざしが、正義にほかならないことを知っているからである。

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昭和は遠くなりにけり

自分の趣味は機械式のフィルムカメラ、そして10代だった2000年代は1980年代以前の日本アニメの青春期の作品ばかりを見ていた。

 

つまり自身の人格を形成したのは昭和の文化であり、生まれる以前の文化の後追いをしていたアナクロニズムの人間であることが本質だったのではないか。

 

街を歩いていて平成のアニソンコンピレーションアルバムが売られていたのだが、内容がどうも「近年」に偏りすぎているように思えた。

しかし、自分が「近年」と感じたのはおおむね平成10年代以降の作品で、2/3を占めるのだから絶対数が多いのは当然なのだ。

 

昭和の時代に明治は遠くなりにけりと嘆いていた人は同じような心持ちだったのだろう。

 

 

平成アニソン大賞 mixed by DJ和(特典なし)

平成アニソン大賞 mixed by DJ和(特典なし)

 

 

 

自身の本質が古いものを好む人であるという指摘を最近受けた。

新しいものを懐疑的に見て、それが一般化したタイミングで取り入れる。

 

それが自分の本質だったのか……。

悪人になりたい

人生でさまざまな罪を犯しすぎて、もう、開き直って完全に悪人としてやっていければいいのだろうが、

というか悪人になれば楽になるのにと外部からもアドバイスされたことがあるのだが、

無為の罪しか犯すことができない。

悪人になる勇気がほしい。

キリスト教をやめたのも、悪に対する後ろめたさが人生へのブレーキになるからだ。

もっと、もっと、もっと、悪いことがしたい。

まどマギをリアルタイムで見なかったのは慧眼

またしても完全にメンタルが落ち込んで絶望に囚われている。

直接のきっかけは、死んだ元恋人の墓参りに行ってパニックに近い状況に落ち込んでしまったことだが、それ以前から気付かずにキャパシティを超えたオーバードライブをしていたようだ。

結局は名誉健常者になれないのではないか、自身の足で立つことは不可能なのではないかという、何度目かの同じ絶望に囚われている。

 

2018年、ずっと観ないでいた魔法少女まどかマギカを観た。

リアルタイムの2011年、あの迷作フラクタルを全話完走したにもかかわらずまどマギをスルーしていたのは、自身の情緒に対して悪影響を及ぼしそうだという直感からだった。

イヌカレー空間の見た目や、漏れ伝わってくるハードな展開に、当時精神的に崩壊していた自分が耐えられるとは思えなかったのだ。

 

2018年、やっとまどマギを見たときには、こんな名作をスルーしていたのは損していた、と感じた。

しかし今思うのは、当時の自分は慧眼だったのではないか、ということだ。

 

いまこうしてまた絶望に襲われる中。

美樹さやかの絶望や、叛逆の暁美ほむらの絶望と醜さが、自身の絶望を補強する材料として働いてしまっているのだ、

美樹さやかの絶望を重ね合わせて自己憐憫の道具としてしまっている。

 

現実には絶望が存在するだけで、鹿目まどかはいない。

そもそも魔法少女でさえないし、少女でさえないし、女性でさえない。

救うものはない。

 

そういうときに自己を自分で助けることだけを考えてやってきたが、自力ではどうにもならないとなったとき。

他者に助けを求めるという方向性も考えられるが、それはこれまでに散々やってきて、結局、他者はあくまでも他者で絶対的に助けてくれるものはないと認識したので、以前のように助けてくれと絶叫することもしないししたくない。

 

自分は神を信じることはできない。

想像上の存在に助けを求めることは阿Qの精神勝利法そのものだ。

かつて自身がすがったキリスト教も、本質的に精神勝利法である。

 

仏教ではそこがスタートであるようだが、残念ながらそこまでの脳の強さを持ち合わせていない。

いま自分にできることは、美樹さやかのテーマ耐久100分や、中谷美紀の砂の果実や、そういった、絶望を補強し自己憐憫に浸る音楽を垂れ流しながら現実から逃れることだけなのだ。