読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

3年間

考えたこと 雑記

聖書には特別な数字がいくつかある。
7、40。
そして、「3」もそのひとつだろう。

ふと、自分の人生は3年ごとに、3年周期でひとつの区切りができているのだと思い至った。
そして、いままさに、その3年の区切りが明確に終わりを迎えたのだ。

具体的には、大切な人、一時は結婚しようとさえ思い、それが不可能だとしてもおそらくこれから一生関わりあって生きていくだろうと思っていた人の死。
それによって3年間のループは終わった。

***

小学校。
前半3年と後半3年は別の学校に通い、前半は問題児としての、後半は人としての落ち着きを獲得する期間だった。

中学校。
高校。

そして、自分は大学に6年通った。
前半は自転車サークルと、古書店でのアルバイトに明け暮れる3年間。
後半は自身のメンタルに戸惑い、そして、文学部の学生としての自覚が生まれ、以前よりは授業に出るようになり、興味のままに授業に潜り、知的好奇心を追った3年間だった。

***

次の3年間、つまり前回の3年間。
2011年、おそらくは震災から、2014年のはじめまで。
自分が「やりたいこと」、具体的には写真を追求しようとし、精神の病への絶望から立ち直り、そして他人より遅い初めての恋愛に明け暮れた期間だった。

前回の3年間の終わりはカタストロフだった。
写真を行うことを明確に諦めた。
写真関係のものや趣味の道具、書籍といった形のあるものをすべて捨てた。
精神的にも、それまで好んでいたものをすべて捨てた。
そして、その終わりのときには、路上で絶叫し、入院こそしなかったが医者に運び込まれ、わかりやすく精神的な破綻を迎えたのだった。

***

さて。
それでは、いままさに終わりを迎えた3年間は、どんなことがあったのだろうか。

2014年から、いままで。
いくつかのことがある。

まず、自分が発達障害であると言われたのが、ちょうど、そのはじめのころである。
発達障害というカテゴリの人間関係のなかでは、多くの人と出会い、多くの影響を受けた。
世を去った人と出会ったのも、発達障害関係のコミュニティでのことだった。

教会に通い始めたのも、この3年間のはじめのことだった。

そして、仕事。
それまでの自分は、そもそも自力で生計を立てていなかった。
それが、まずは前回のループの終わりで自暴自棄になり、すべてから逃げ出そうとしたことで否応なしに自力で金銭を得なくてはならなくなり、多かったり少なかったりはするが、基本的には自分の手で、生活費を稼ぐようになったのだ。

もうひとつは異性。
この3年間で何人かの人と交際した。
1ヶ月で別れた人もいた。
かつての恋人とよりを戻して、結局失敗したこともあった。
そして、一番長く交際し、同居し、互いのことをすべて話し合ったのが、今回世を去った人だった。

異性。
恋愛。
誰かと生きていきたいと願い、でも誰かとずっと生きていくことが叶わず、ふらふらと、あてもなくさまようのが、この3年間だった。
誰と生きていくか。
誰かと生きていくことができるのか。
それを探していたのだった。
だが、探してばかりで一箇所に落ち着くことをしなかったのだった。

***

彼女の死は、明確に自分の人生についての区切りだ。

しかも、おそらくはこれまでの人生でいちばんの大きな区切りだ。

前回の3年間の終わりは一種のカタストロフだったが、この3年間の終わりは、それとは比べものにならないカタストロフである。

ひとつのループが終わった。
急に終わった。
唐突に終わった。

***

いま終わったばかりのループは、発達障害と信仰、仕事、そして異性が大きなテーマだったのだろう。
その前にあったループは、絶望からの回復と写真=自己表現がテーマだった。

そして、次のループが、おそらくは始まる。

そのループが、自分にとってどんなテーマをもったものになるのかはわからない。

過去のループの意味は、それが終わったときにしかわからなかった。
いまは、こうしてひとつの区切りが終わってはじめて、その時間が自分にとってなんだったのかということに気がついたばかりである。

しかし、いま、この瞬間。
遅くとも明日か、明後日には次のループが確実にはじまる。

生きている意味や目的、すべてが変わるに違いない。
それは確信に近い。

これまでの時間と、これからの時間はまったく別のものになることだけはわかる。
どんな時間になるのかはわからないが、死んで、生まれ変わることを感じる。

彼女の死は、自分を終わらせてくれた。
そして次の時間を与えてくれた。

神は暗闇に光る1本のロウソク

キリスト教 考えたこと

教会の同年代の集まりで、ふと思い、口にしたことなのだが、自分にとって神とは、暗闇に光る1本のロウソクなのかもしれない。

最近のことだが、自身の前後の年齢、いわゆる青年世代の集まりで、それぞれの歩みについて話す機会があった。

そのときに、クリスチャンの家系に生まれ、教会で育ってきた人の話を聞いて、率直に感じた印象があったのだ。

「この人は陽の当たる世界を歩いている!!!」

単に職業の違いの問題ではない。
健全な精神の問題ではない。

世界の見方。
その人の人生観は陽の当たる世界そのものだったのだ。

その人にとって神とは、とても親しい存在であるようだった。
日向の世界で優しく、ともに歩いている光景。
そんな印象を受けた。

ではいっぽうで、大人になってから洗礼を受けた自分はどのように神について捉えているのだろうか。

すぐに浮かんだのは、暗闇に1本のロウソクが光っている光景だった。

べつに、自分の人生が暗黒だといいたいわけではないし、他人と比較して自分が劣っていると思いたいわけでもない。

ただ、自分にとって神とはどんな存在なのかと考えたときに、
「助けて!!」
とすがりつくイメージが真っ先に浮かんだのだ。

まさに、受洗してからつい最近までの自分は、ごめんなさいをいいたいがために、そのカタルシスを得たいがために祈り、礼拝していたようなものかもしれない。
しかし、その罪の赦しを得てもなお、自分の生きる世界は日向ではなく、放っておくと泥沼に沈んでいくような裏通りであると思えてならないのだ。

しかし、その世界のなかで、確実にその光は小さく輝いている。
光という1本の糸だけは、日向の世界との繋がりを保ってくれている。

暗闇に光る1本のロウソク。
それこそが、現時点での、自分にとっての神なのだ。

小さな光なので、見失いそうになることは頻繁にある。
だからこそ、見失わないための方法を、ひとつず探していこうと思う。

園子温の映画「愛のむきだし」で使われている日立デジカメ

作品感想 写真

園子温の映画、愛のむきだし

 

 

愛のむきだし

愛のむきだし

 

 

 

主人公が行う「盗撮」が物語で大きな役割を果たすわけだが、彼が使っているデジカメは、カメラファンには(一部で)知られているいわくつきの機種なのだった。

 

その名を「日立デジカメ」という。

 

続きを読む

園子温の映画「愛のむきだし」で用いられたキリスト教関連のあれこれ

キリスト教 作品感想

いまさらですが、園子温の映画、「愛のむきだし」(2009年)を見ました。

 

 

愛のむきだし

愛のむきだし

 

 

 

カトリックの家庭に育った主人公、キリスト教系新興宗教が物語内で大きな影響を及ぼすなど、全体的にキリスト教モチーフにあふれたこの映画。

 

自分としてはまだ咀嚼しきれていないので、多くを語ることはまだできないのですが、ひとまず、映画を見ていて気がついた、キリスト教関連のモチーフについて、簡単にまとめてみようと思います。

 

続きを読む

インターネットコンヒサン

キリスト教 考えたこと

告白する。

神に。
人にも。
告白する。

決壊してしまった。

平たく言って罪を重ねに重ねてきている。
自分はキリスト教の教会で受洗しているわけだが、本来もっとも告白すべき罪を告白せずにきてしまったのだ。

そしてふと、生活の中で不安にとらわれるのはなぜかということや、なぜ繰り返し心身の不調に陥るかということを考えたとき、その二重生活、嘘を重ねる生活を告白しようということに至ったのだ。

続きを読む