救いはどこにもない

完全に、疲れ果てて倒れてしまった。

しかし、以前と違うのは、こうなったときに頼るなにものかがないことだ。

誰かとか、何かとかに頼って、依存していくことがとても空々しく思える。

これまでにいろいろなもの、こと、人に助けを求めた。
恋愛に依存したり、宗教に頼ったり、さまざまなコミュニティに頼ったりした。

しかしその結果わかったのは、誰も、なにも、助けてはくれないということだ。
当然のことではある。
まず自分自身が立つほかない。

だが今回、自分自身の力の限界で、どうやら(最低限の)立つことさえできないことがわかり、どうしたらよいのか。
平たくいって、死ぬしかないと思っている。

どうやら自分は、体力の問題である一定以上のクオリティ(いわゆる普通)を実現することは不可能であるらしい。
もちろん、ある程度のものをつくって、そこに甘んじて生きていくことは手段としてはありうるだろう。
しかし、たとえばカメラであるとか写真であるとか、そういったものについて、それなりに下手に目が肥えてしまって、他人が作ったものを見るならまだしも、自分が適当なクオリティで満足されるようなものをつくって生きていくことは、正直言って受け入れがたい。

それと、自分は結局、神を信じることはできない。
神はいない。
いるということにしてキリスト教をやろうとしたが、いることにする、という態度は、すでに他に依って立つものがある人でこそ成り立つことなのだ。
いっぽう、私は救われたということを心から信じ切って頭をお花畑にすることは、単なる狂人でバカだ。
宗教は自力で立っているひとのためのものだ。
神は救わない。

これまで、たとえば自分自身を包み込んでくれるような女神的存在、依存させて受け入れてくれる女性を求めて何人かのそういった素敵な人と出会うことができた。
だが、実際に自分を愛してくれる女性と同棲してわかったことは、それは救いではないということだ。
自己を承認したり癒やしてくれたりする人は、求めても意味がないことがわかった。
愛してくれる人はいても、自分自身、相手を愛するだけの能力がない。
意味がない。
だから、いまこうして倒れてみて、以前のように、女性や依存や、それどころか友人に助けを求めることも意味がなく思える。

けっきょく自分が求めているもの、やりたいこと、なりたいものは、何らかの手段で立身出世したかったのだろう。
そもそも10代の時点で勉学でつまづいたときに、旅や美術や文化や、つまり代替品に手を出したのがまちがいだった。
直近、かなりその後の理想に近い形で仕事と収入とをやりたい形でできるようになって図に乗っていたが、やはり体力がもたなかった。

ここまで譲歩した形で、自分自身の力で立つことができないのなら、もうどうやってもなにもできないのは明白だ。

宗教にはまっている馬鹿な人間は、そのようにして倒れたときに次の人生への転換が始まるというようなことをおそらく言うのだろうが、
そんなことはまっぴらごめんだ。

自力で立てない。
そんな事実に直面して、自分は、死ぬ勇気が出るか、衝動的に(怖がることなく)死ぬことができるか、そういったことを願っている。

倉田百三 『出家とその弟子』

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春の終わりに当時親しかった人に、この本を読むことを勧められて、やっと読むことができた一冊。

自分は、はっきりいってこの数年恋愛がすべての問題になっている。
むしろ恋愛というよりも、愛着障害のような問題であるとも指摘されている。

そんな自分に対して、その人は非常に的確な本を勧めてくれたと思う。

 

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「寺」が付く地名のキリスト教会はどんな名前を名乗っているか

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吉祥寺、高円寺、祐天寺。

大阪の天王寺

 

日本にはいろいろな「寺」がつく地名がある。

 

もちろん由来は、その場所にあるお寺の名前である。

 

駅の名前にもなるし、国分寺市のように自治体の名前にもなる。

 

でも、よくよく考えてみると、お寺の名前ということは、仏教に由来する名前だということである。

 

それじゃあ、その土地にある他の宗教、たとえばキリスト教の教会はどんな名前を名乗っているのだろうか?

 

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